初めてのお別れの挨拶 95歳の患者さんのこと

初めてちゃんとお別れの挨拶をすることが出来た患者さんは95歳で、最後まで孫と話をした直後に、眠るようにどころか、少し休憩している風に息を引き取られました。

後縦靱帯骨化症の手術後に、家の中を歩けず、四つ這いで移動をし、そのためにこぶしに「歩きタコ」が出来ていました。なんとかならないかと在宅介護支援センターの方から依頼をいただき、お付き合いが始まったのは、25年前、介護保険の導入前だったように記憶しています。
私がまだ前の治療院に勤めていた頃です。

とても真面目で一生懸命な性格から、訪問を始めてすぐに室外歩行までできるようになられました。私の担当ではなく、たまに公園などで歩かれている時に声をかける程度のおつきあいでしたが、こうなるととてもうまくいったモデルケースのような患者さんになられるはずでした。

しかしながらその後、トラブルやクレームで、担当者が、次々と交代せざるを得ないことが続いて、最後の最後に私の順番がまわってきました。多分今から12年くらい前だったと思います。

そのトラブルの原因の多くは、マッサージや筋トレやストレッチなどの施術後のご本人の身体の不調の訴えにありました。

こちらとしては一般的な当たり前のことをしていたつもりでも、後で痛みが出たからあれはしないでほしいと言われることがたびたびで、思い当たることを見つけられず、身体の不調ではなく、精神的な不安や不満からの訴えだと理解し、この方をクレーマーという理解の対応だったように思います。

私は、自分が最後の砦的な気持ちでした。もし、私もうまくいかなかったら、他の治療院に代わることになかもしれない、経緯を知らない新しい治療院に代わるより、この方の言い分の全てを受け入れていくほうがいいと考えました。

私と付き合いが始まった頃、この方は、まだ歩行車を使って歩けていましたから、トイレに行くことやその他全ての生活動作は自分でできていらっしゃいました。
それでも背骨に問題がある方の多くがそうであるように、この方もまた胸を張って歩くと負担が大きく、また、膝の力も落ちていたため、腰を「く」の字に曲げて、膝を突っ張った(膝は本来軽度屈曲させて衝撃を吸収するようにしているのですが、筋力がない場合は突っ張って使うようになります)姿勢で歩かれていました。

私としては、歩行力を保ち続けていくためには、各関節に少しずつの遊びがあるように筋肉を緩めていきたいのですが、頚部を手術しているから脊柱周辺は触らないでほしい、強い刺激は後にひびくからやめて欲しいという希望があり、どう考えて関節の負担を減らして行けばよいのか、全体を弱い刺激で緩めていく方法を、その時の私はまだ知りませんでした。

それで、下肢の筋トレ、立ち上がり、歩行、それから軽いマッサージで対応しながら、機能が長持ちする方法を模索しました。
それでも、施術後に違和感を覚えたと度々連絡をいただいていたように思います。

今では、患者さんの訴えの中に私の治療師としての次のステップを開く扉があることを自覚して、詳しく聞き出すことができますが、当時の私は、自分に現状を分析する自信も経験も少なく、訴えの理由が分からずに、ただ、訴えを受け入れ、その結果私のできることが少なくなっていくそんな感じでした。

それでも、そのストレスが相手に向かわずに自分の未熟さに原因を求められたのは、この方の高い工夫力と毎日の自主トレによって日常生活動作の自立が守られているのを見たからでした。

頚椎の術後のためか上下肢には不全麻痺が残っていましたが、普通では考えられないやり方で自立を勝ちとっている人が、単なる精神的な不安だけで何かを訴えてくるとは考えられなかったのです。
例えば、ベッドからの起き上がりは体幹の力と足りない分を腕の力で補うのが一般的かと思いますが、この方は腕がうまく使えないので、ベッドから足を下ろす、その重みを利用して、起き上がりから一挙に床に座ることで、起き上がりを「簡単」にしていらっしゃいました。
言葉でうまく表現できませんが、体操のあん馬のようで、初めて見た時はあまりに驚いて言葉も出なかったくらいです。

そうして、思っているような形ではない結果に何度もダメ出しをいただきながら、この方の関節がとても浅く可動域が正常範囲を超えるほどに大きいために、強いマッサージの刺激が靭帯を予想以上に伸ばしてしまい、身体に違和感を与えてきたことを知っていきました。

このようなことが長年のクレームの原因になっていたと知り、極力、他力で関節を動かさず、自力で動かしていただくやり方に変えていきましたが、長年の不信感は大きく、やり方を変えてからも小さな違和感が不安感・不信感に繋がるという時間が長らく続いていたように思います。

そんな時間を数年過ごしたある時、ずっと介護を続けているご家族さんが、
「安井さんが、一番ばあちゃんの身体をわかっているっていつになったら気がつくんやろう」と言って下さいました。
それを聞いた私は、本当にびっくりしながらもあの時の嬉しさは忘れることはできないくらい感激しました。そして、側で見ていて下さるご家族の信用が得られたという自信は、患者さんにかける言葉も変えてくれたのでしょう。その時から患者さんの不安感が私への不信に繋がることがどんどん減っていったように思います。

その後、肺炎やその他の原因で何度かの入院を繰り返し、元々麻痺のある手足はどんどんと動かなくなっていきました。それでもどんなに動く範囲が小さくなっても、考えられるあらゆる工夫をこらしながら、最後の最後までベッドの上で出来るリハビリを続けられました。手足の自由がどんどん失われても、声は出ると大きな声を出してリハビリをし、私たち訪問者を笑わせたり労うことを忘れることなく旅立っていかれました。

この方との出会いで学んだことはとても大きく、語り尽くすことが出来ないくらいですが、施術のやり方においては、ソフトな刺激でも全体の関節に緩みを作り、身体の動きやすさを助けることが出来ることを長い時間をかけて学ばせていただいたように思います。

それは、この方の真面目さ、自分を失うことなく生きる強い心のおかげです。なぜなら、うまくいかなくても、粘り強く私を見捨てず関わることを許して下さったからです。だからこそ学べました。多くの場合は、この偉大な気づきの前に関わりを断られ、自分の間違いに気づけないまま仕事が終わってしまうのだろうと思います。

そしてこの長い深い付き合いの中で、施術しながらも、何度も精神的に支えられ、人生の助言をいただいたか知れません。技術とともに、技術よりも大切なものをいっぱい教えていただいたのだと思います。

私の未熟な時を思い起こしながら書いては休み休んでは書いて、書き終えるのに、とても時間がかかってしまいましたが、忘れてしまわないように、彼女の人生についてもう一回書いておきたいと思います。年内に書きたい…と思っております。

時間がかかりすぎて、なまなましい感覚を忘れてしまったこともありますが、時間が経っても忘れられない大切なものを残して下さったように思います。

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