愛で心を満たそう、毎日をワクワクで満たそう

コロナ騒動のため、施設ではご家族様の面会も制限されているところが多くなっています。
訪問マッサージは医療として訪問させていただけている施設もあります。
そんな施設の一つにご家族が毎日朝夕に二回面会に行かれていた患者さんがいらっしゃって、面会禁止になり日に日にお元気がなくなって来られました。

そこで今日は、訪問中に、ご家族様とスマホを使ってビデオ通話しました。

ご家族も患者さんも本当にうれしそうで、なんだか素晴らしいアイデア💡だったと我ながら嬉しくなりました。

コロナにめげずに一日一つ楽しい新しい取り組みをしてみようかなぁ。

コロナウイルスじゃなく、愛で心を満たそう。
コロナウイルスの恐怖より、毎日をワクワクで満たそう。


新人vs古参 お楽しみくださいませ。

一緒にご飯を食べること

金曜日は、治療院の新年会をしました。

ルーティーンな毎日が好きな私は、イベント事に腰が重くていけません。ついつい院内懇親会を先送りにしてしまいます。

でも、そんな時思い出して、えいやっと実行に移すことが出来る言葉があります。

「一緒にご飯を食べるのはものすごく大切やで。一緒にご飯を食べたら心がほぐれるから、機会を設けて、職場の人とは一緒にご飯を食べなあかんで」

これは、かつて叩き上げで敏腕刑事として有名だったという患者さんのご主人に言われた言葉です。一緒に夜勤をする時は、例えインスタントラーメンでも若い子に作ってあげて、一緒に食べるようにされたそうです。

もう10年くらい前に行かせていただいていた患者さんですが、思ったようにうまくいかない時はいつもこの言葉を思い出します。

悠生治療院のように小さな治療院であっても、それぞれに立場も年齢、考え方、経験など全てが違うので、小さなすれ違いは日々起きていて、小さな不満や不信感はお互いの心の中に沈殿しているのだろうと思います。
それに対しては、正しいやり方や考えというのはなくて、また、院長として従業員に期待することと、従業員として院長に希望することは違っています。

この違いを言葉で埋めることは到底できなくて、美味しいものをお腹いっぱい食べて、飲んで、たわいもない話をする時間を共有することが、そんな心のおりを流すのに、一番よいのだろうなぁと一緒にご飯をお腹いっぱい食べようと思うのです。

みんなが幸せな気持ちで過ごせてもらえていたらよいのですが…

至らないところもいっぱいあって、患者さんにも、関係各位様にも様々迷惑をかけることも多いと思いますが、みんなで補い合えるような治療院になるよう努力していきたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

虹を見ると神さまから合格をもらってるみたいで安心します。

最上級の笑顔

先週末、年末から入院されていた方が、ご無事に退院されてこられました。
病院では、連休明けの退院を勧められたそうですが、マッサージを受けたいからと週末の退院を希望されたそうです。

週末からは、別のスタッフが訪問していたので、ご要望にお応えすることはできていましたが、年末年始を含む長いブランクの間どうなられているか気になって仕方ありませんでした。

私の悪い癖で、自分の目でみないと気が済まないところがあります。
スタッフを信用していないわけではないのですが、患者さんの出されているオーラというのでしょうか、生命力や幸せそうなお顔か苦悩されている雰囲気か、それを自分の目でみないとわからないという時があります。

これは、呼吸だったり、声のトーンだったり、顔つきだったりするのですが、言葉で表せるものでないので、とにかくこの目で確かたいと思ってしまいます。

それで、昨日ようやく訪問することができましたら、便の処置ということで、訪問看護さんと訪問介護さんが臨時に来られているところでした。

しばらく待って、もう終わりというところで、とりあえずご本人にご挨拶に行きました。予想以上にお元気そうなお顔で本当にホッとして、思わず私からも最上級の笑顔がこぼれたのではないかと思います。
患者さんもにっこりといい顔で笑い返して下さいました。

それを見ていた訪問看護さんから「古くからのお付き合いですか?」と尋ねられました。
いえいえ、みなさんと同じまだ浅い間柄ですと返事すると、
「あー! 別の患者さんでもものすごく待ってるって会議で話になっていた方ですね!」と別の場所でご一緒したことを思い出して下さり、
「この笑顔!みんなが待ってはるんですね!」と言って下さいました。

いやいやたまたまですが、患者さんの笑顔からこんなお褒めにあずかるとは、嬉し恥ずかし😊とてもハッピーな気持ちになりました。

でも、本当はこんな風な患者さんの表情からいろいろ読み取れる看護師さんの感受性が素晴らしいのではないかと思います。
こんな方と一緒のチームで仕事をさせていただける幸せを噛み締めて、期待に添えるよう、心をこめて一生懸命頑張りたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

こんな風に最上級の褒め言葉をいただくこともありますが、役立たずの気やすめみたいに言われることもあります。様々な評価をいただくのは当たり前なのでしょうが、日常の仕事の中で、自分だけのダイヤモンドのような輝きを見つけていきたいと思っています。

大切な二つの気づき

今年のお正月は京都でのんびり布団を温めました。少し映画を見たり、本をよんではまどろみ、まどろんでは少しの家事をしたりおしゃべりをして、またまどろむを繰り返しました。

というのも、元旦の夜に喉の筋肉が引き攣れる痛みに手をやると、なんと小鳥の卵🥚のようなシコリを見つけてしまったからです。

リンパ節が腫れたにしては大きすぎて、感染症ならヤバすぎる感じです。

癌ならもうそろそろっていう大きさです。

とりあえずググッてみて、最悪の可能性から、大したことのない可能性までをサラリとチェックし、お正月だし、救急で行くほどじゃないし、寝ていたら小さくなってくれますようにと、大義をもって横になっていられたというわけです。

日頃の疲れがたまっているのに加え、風邪のひきかけだったようでとにかくよく眠れました。寝すぎて頭がいたいのか、「感染症」で頭が痛いのかわからなくなってきました。それでも喉の卵の大きさは変わりません。でも引き攣れた痛みはなくなってきたようにも思いましたが、とりあえず救急外来に行きました。
万が一のことを考えて、紹介状のない場合の5500円を支払い一番近くの総合病院に行きました。

研修医の若い先生が、いろいろな可能性を考えて、あらゆる角度から問診をして下さいました。上の先生とも相談をして、緊急性がないので、通常営業になってから再度受診するように言われました。

そうして、お正月休み開けの月曜日に、スタッフに仕事を交代してもらい朝から診察を受けに行きました。
まず、どこの科を受診するか見定めてもらえる総合外来を受診しました。

総合外来の先生はカルテを見て少し触診をして、甲状腺だから耳鼻咽喉科に行くように言って下さいました。また、癌の可能性はほぼないでしょうと言って下さったのでホッとして次に進みました。

しばらく待って診てくださった耳鼻咽喉科の先生も、確かに甲状腺ですね。と触診をしてエコーをかけて下さいました。
そして、黒く写っていたこれは、水か血が入っていて、大きくなって邪魔をしない限りなんの問題もないものだと説明をして下さいました。血液検査などの精密検査もせず、薬もなくお会計を済ませてお終いとなりました。

数日に渡り心配をしていた気持ちが軽やかに溶け、とても嬉しくて飛び跳ねるように帰り着きました。

今回の騒動でわかったことが二つあります。

一つは自分が考えているより、身体は休息を必要としている年齢になってきていることです。自分の身体が万全でないと満足な治療も出来ないのだろうと思います。今年はまずは自分を癒すことを大切に過ごそうと思います。

もう一つは、お医者様の触診の手が身体に触れた時に感じた安心感・信頼感です。優しいソフトな指先で探るその指先は、その後の先生の説明を信頼する気持ちが芽生えさせたように思います。

そう考えると今までも何度かこの指に触れられたことがあることを思い出しました。

「この指」は、全てのお医者様から感じたわけではありませんが、「この指」が医師あるいは治療師への信頼感の基礎になっていて、この安心感の後に行われる全てに信頼して身を任せられるような気がします。今回は「この指」のおかげで不安が取り除かれ何の検査もないことも全く気にならなかったように思います。

つまり私たちの仕事も最初のタッチで全てが決まるところがあるのだとわかったのです。
触れるということの大切さを改めて感じました。

お正月早々、少し騒がしい心で過ごしましたが、大切な二つの気づきを得たので幸先の良い始まりだったと思えます。

それから、確定するまでに私の身を案じてくれた全ての人にはもちろん感謝しかありません。
ありがとうございます❣

ネイルシール。ティーンエイジャーの雑誌の付録を患者さんからいただきました。少しカラフルな指で始めています。

書き初め

息子の書き初めついでに私も書き初めをしました。
初心というよりはなりたい私を文字化してみました。
「悠生治療院 関わる全てに豊かさと平安をもたらす」

あくまで願望ですが、ただ私一人のお金儲けと楽しい経験と技術の習得を願うのではなく、働いてくれているスタッフ、患者さんとして縁を頂いている方々、そして仕事を紹介して下さる方々、一緒のチームで私たちのワガママな時間を心よく受け入れて下さる心優しい方々、そして社会情勢を跳ね除け同意を下さる先生方、皆様に豊かで平安な暮らしがもたらされる一年になりますように願いを込めました。

どうぞ神様がわたしの願いを聞きいれてくださいますように。
私が自分のことだけでなく、広い大きな愛に気づき鷹の🦅眼で生きていけますように。
どうぞよろしくお願いします。

がんばります!

患者さんの物語『おはつ』

「おしんも真っ青、『おはつ』ってテレビで放映してもらなあかんなぁ。私に文才があったら書いて売り込みにいくのに」

初めてお別れを言えた患者さんは、いろいろなご自分の話をよく聞かせて下さったので、私はよく冗談混じりに、でも本気でこう言っていました。

東北で生まれ育ち、幼い頃に父親を亡くし、母方の親戚に引き取られたために、小学校に行くことも出来ず、ずっと子守ばかりさせられていたこと。
バケツで水汲みにいかされ、家に着く頃には、バケツの水が半分になっていたとか、桑の実をこっそり食べては、口が紫色になってすぐばれて怒られたこと。
ようやく子守りから解放され、東京の紡績工場に勤めて、お給金をいただいて暮らせるようになったのに、お母さんに会いたくて手紙を書いたら一緒に暮らそうと言われ喜んで工場をやめてお母さんの家に行ったら、炭鉱を経営している義父に鉱山から石炭や人夫を引き上げるウィンチ巻きの仕事ばかりさせられたこと。
「お母さんは前夫の子どもの私が邪魔だったんかな」と言いながら、それでもお母さんが亡くなる時は病院に行ってお世話してあげたことも話して下さっていました。

また、そこで結婚相手を見つけて、結婚をしたと思ったら酒グセの悪い男だったので、首も座らない乳飲み子を籠に入れて子守をしながら紡績工場で働いて大きくしたこと。

二度目の結婚の男ともうまくいかず、京都で苦労しながら一人で子育てをした話。大人になってから自分で文字を書けるように努力したこと。
ようやく子どもを成人させてから孫を育てなければならなくなった話。
今は、その孫に介護を受けていて、苦労して孫を大きくした甲斐があった、こんな優しい子になるとは思ってもみなかったなどと話をして下さいました。

映画を観ているように語られる話に、聞いている私が一人涙を流してしまうこともよくありました。
彼女の苦労話は、彼女個人のものですが、戦前の東北の貧しさや、当時の人々の生活を想像するに足るもので、苦労というのは人をこんなにも強くたくましくする一方で、幼少期の傷が一生に渡り影を落としていくものだと思うこともしばしばでした。

誰一人として知った人のいない京都での子育ては、本当に大変だったみたいで、よく2人で、京都に溶け込むことの大変さを話し合いました(私も地方出身なので)。
また、幼少期から大人になってまで続いた困難な生活の中で、人と本音で付き合うことの怖れが身に染み付いているようにも感じました。
いろいろ言って下さってはいても、本音の部分は家族以外には絶対に見せないという硬いガードが見え隠れしていたのです。

それが付き合いが一年また一年と伸び、機能が低下してくるにつれ、私が言うのは本当におこがましいのですが、一皮も二皮も剥けて、なんとも言えない深い味わいになっていかれるのが側でいた私にはよくわかりました。
どんな大変な話も深刻な話題も冗談めかしの表現になっていった様子に、諦めと自分を失わない強いものを感じて、最上級のブラックジョークを聞いているみたいで、私はいつもケラケラと笑いながら、心の底からいつか私もこんな視点でものを観られる人間になりたいなぁと思っていました。

あんまりにも私がケラケラ笑うから
「安井さんは私がなんか言うとすぐ笑う。なんでや」とよく言われていましたが、それは付き合ってきた全てを凝縮したような楽しさだったから言葉でうまく表現できないのでした。

確かに最初は、私が「癒す側」でしたが、この頃から私が「癒される側」になっていったように思います。

私の子育てのことや、職場のスタッフのうまく出来ないことも「ここに送ったら私が上手く言ってあげるから」などと身体のケア以外は私の方がずっとお世話になっていたように思います。

この方に限らず、大概はわたしより歳上だったり、障害を受けたことで深い経験をされている方が多いので、治療に行かせていただきながらも、精神的には私の方が癒されることが多いように思いますが、このおうちでは、とりわけても心地よい気持ちで施術させていただいていたように思います。

長いおつきあいがおしまいになってしまって、もうあの最上級のブラックジョークを聞いて癒されることはなくなってしまいましたが、きっと遠くで孫達を見守っているついでに、私のことも見てくださっているに違いないと思っています。

いろいろなことを学ばせて頂いた私は今年はさらにパワーアップして、身体だけではなくて、もっと奥深いところに働きかけられるような、心が元気になるような治療を目指して行きたいと改めて思っています。

どうぞよろしくお願い致します🤲

ハートの中にペガサス(ペガサス)が。ペガサスみたいに飛ぶ一年に。

2020年 明けましておめでとうございます

🎍明けましておめでとうございます🎍

2020年が、皆様にとって素晴らしい歳になりますように。またそのきっかけとなるような治療ができますようにスタッフ一同、心を込めて頑張りますのでどうぞよろしくお願い致します。

悠生治療院において、昨年はスタッフの入れ替わりがありました。
新しく来てくれたスタッフは、“按摩が大好き、ホンモノの按摩さんを目指している”という新人です。

その姿に、マッサージの専門学校時代に、按摩術の流れるような手つき、身体の上で音楽を奏でるようなリズミカルな動きに魅力されたかつての私を思い出しました。
彼女の施術へこだわりが大きいことにとても期待しています。

私としては、私の学んできた全てを伝え、本人仕様にさらに昇華させて行って欲しいと心から望んでいます。それが未熟な私に身を任せ経験を積ませて下さったかつての患者さんたちや保険を使って治療させて下さっている社会への恩返しだと思っているからです。

しかしながら、ニューフェイスにとっては、右脳的・感覚的な私の説明はなかなかピンとこないようです。そんな時、別の男性スタッフが翻訳してくれると理解が進むようです。

このやり取りを見ながら、男性スタッフが長い時間をかけて私の言葉を自分仕様に組み立てて理解してくれていたことを知り、申し訳なさとありがたさが混じり合って、とても幸せな気持ちになりました。

按摩マッサージ指圧師に限らず、人間が手で施すことのできる手技に特別なことはないように思います。
気持ちいいと患者さんに感じてもらえることや痛みや機能の改善に、その差がでるのは、身体の中で起きていることへの理解にあるのだと思っています。
目には見えない、レントゲンにも写らない、本人の自覚を指先で起きていることを理解する力と、身体に対する信頼が大切なのかなと思っています。
身体は示す反応は全て必要があって起こしている、ただ、身体のバランスが崩れた時には身体の示す反応も過剰になってしまうので、バランスが取り戻せるように調整することが施術師の役割だと考えています。

理論的にはとてもシンプルなこの理屈も、実際は筋肉のつき方など個人差が大きく、施術師は、その循環を阻害している「石」を取り除き、あとは自力で転がる力を信用する方が、本人仕様の完璧なバランスに近くなるのですが、このさじ加減が難しく、毎日がチャレンジと発見の連続です。

このさじ加減や患者さんとの身体の対話が楽しめるようになると、もうやみつきで、時間にとらわれず、患者さんがもういいのにという気になっても、

ごめんなさい、もうちょっと、いいところなんですわー(・_・;

ってことになります。時間で終われないのは、プロとしては二流かもしれませんが、一流の按摩師を目指すなら大切なこだわりでもあると思います。

ただ、この技術へのこだわりが真の治療力に結びついていくには、患者さんへの共感力なしには不可能なように思います。
患者さんを置き去りにした技術は、独り善がりなもになるからです。
つまり患者さんへの共感力こそが本物の按摩さんへの道なのだと思います。

ニューフェイスには、すぐに手に入らないもどかしさを抱えながらも、自分を受け入れて施術させて下さる患者さんへの感謝を忘れずに前に進んでもらいたいと思います。

私は、人に伝えるために、もう少し他の方々の技術を学んでいきたいと思っています。本を読むのがゆっくりなので、読み進めなくて困っています…

そして願わくば、私の施術が、患者さん自身がそれぞれの治癒への道を歩いてくださるようサポート出来る力を身につけていきたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願い致します🤲🤲

初めてのお別れの挨拶 95歳の患者さんのこと

初めてちゃんとお別れの挨拶をすることが出来た患者さんは95歳で、最後まで孫と話をした直後に、眠るようにどころか、少し休憩している風に息を引き取られました。

後縦靱帯骨化症の手術後に、家の中を歩けず、四つ這いで移動をし、そのためにこぶしに「歩きタコ」が出来ていました。なんとかならないかと在宅介護支援センターの方から依頼をいただき、お付き合いが始まったのは、25年前、介護保険の導入前だったように記憶しています。
私がまだ前の治療院に勤めていた頃です。

とても真面目で一生懸命な性格から、訪問を始めてすぐに室外歩行までできるようになられました。私の担当ではなく、たまに公園などで歩かれている時に声をかける程度のおつきあいでしたが、こうなるととてもうまくいったモデルケースのような患者さんになられるはずでした。

しかしながらその後、トラブルやクレームで、担当者が、次々と交代せざるを得ないことが続いて、最後の最後に私の順番がまわってきました。多分今から12年くらい前だったと思います。

そのトラブルの原因の多くは、マッサージや筋トレやストレッチなどの施術後のご本人の身体の不調の訴えにありました。

こちらとしては一般的な当たり前のことをしていたつもりでも、後で痛みが出たからあれはしないでほしいと言われることがたびたびで、思い当たることを見つけられず、身体の不調ではなく、精神的な不安や不満からの訴えだと理解し、この方をクレーマーという理解の対応だったように思います。

私は、自分が最後の砦的な気持ちでした。もし、私もうまくいかなかったら、他の治療院に代わることになかもしれない、経緯を知らない新しい治療院に代わるより、この方の言い分の全てを受け入れていくほうがいいと考えました。

私と付き合いが始まった頃、この方は、まだ歩行車を使って歩けていましたから、トイレに行くことやその他全ての生活動作は自分でできていらっしゃいました。
それでも背骨に問題がある方の多くがそうであるように、この方もまた胸を張って歩くと負担が大きく、また、膝の力も落ちていたため、腰を「く」の字に曲げて、膝を突っ張った(膝は本来軽度屈曲させて衝撃を吸収するようにしているのですが、筋力がない場合は突っ張って使うようになります)姿勢で歩かれていました。

私としては、歩行力を保ち続けていくためには、各関節に少しずつの遊びがあるように筋肉を緩めていきたいのですが、頚部を手術しているから脊柱周辺は触らないでほしい、強い刺激は後にひびくからやめて欲しいという希望があり、どう考えて関節の負担を減らして行けばよいのか、全体を弱い刺激で緩めていく方法を、その時の私はまだ知りませんでした。

それで、下肢の筋トレ、立ち上がり、歩行、それから軽いマッサージで対応しながら、機能が長持ちする方法を模索しました。
それでも、施術後に違和感を覚えたと度々連絡をいただいていたように思います。

今では、患者さんの訴えの中に私の治療師としての次のステップを開く扉があることを自覚して、詳しく聞き出すことができますが、当時の私は、自分に現状を分析する自信も経験も少なく、訴えの理由が分からずに、ただ、訴えを受け入れ、その結果私のできることが少なくなっていくそんな感じでした。

それでも、そのストレスが相手に向かわずに自分の未熟さに原因を求められたのは、この方の高い工夫力と毎日の自主トレによって日常生活動作の自立が守られているのを見たからでした。

頚椎の術後のためか上下肢には不全麻痺が残っていましたが、普通では考えられないやり方で自立を勝ちとっている人が、単なる精神的な不安だけで何かを訴えてくるとは考えられなかったのです。
例えば、ベッドからの起き上がりは体幹の力と足りない分を腕の力で補うのが一般的かと思いますが、この方は腕がうまく使えないので、ベッドから足を下ろす、その重みを利用して、起き上がりから一挙に床に座ることで、起き上がりを「簡単」にしていらっしゃいました。
言葉でうまく表現できませんが、体操のあん馬のようで、初めて見た時はあまりに驚いて言葉も出なかったくらいです。

そうして、思っているような形ではない結果に何度もダメ出しをいただきながら、この方の関節がとても浅く可動域が正常範囲を超えるほどに大きいために、強いマッサージの刺激が靭帯を予想以上に伸ばしてしまい、身体に違和感を与えてきたことを知っていきました。

このようなことが長年のクレームの原因になっていたと知り、極力、他力で関節を動かさず、自力で動かしていただくやり方に変えていきましたが、長年の不信感は大きく、やり方を変えてからも小さな違和感が不安感・不信感に繋がるという時間が長らく続いていたように思います。

そんな時間を数年過ごしたある時、ずっと介護を続けているご家族さんが、
「安井さんが、一番ばあちゃんの身体をわかっているっていつになったら気がつくんやろう」と言って下さいました。
それを聞いた私は、本当にびっくりしながらもあの時の嬉しさは忘れることはできないくらい感激しました。そして、側で見ていて下さるご家族の信用が得られたという自信は、患者さんにかける言葉も変えてくれたのでしょう。その時から患者さんの不安感が私への不信に繋がることがどんどん減っていったように思います。

その後、肺炎やその他の原因で何度かの入院を繰り返し、元々麻痺のある手足はどんどんと動かなくなっていきました。それでもどんなに動く範囲が小さくなっても、考えられるあらゆる工夫をこらしながら、最後の最後までベッドの上で出来るリハビリを続けられました。手足の自由がどんどん失われても、声は出ると大きな声を出してリハビリをし、私たち訪問者を笑わせたり労うことを忘れることなく旅立っていかれました。

この方との出会いで学んだことはとても大きく、語り尽くすことが出来ないくらいですが、施術のやり方においては、ソフトな刺激でも全体の関節に緩みを作り、身体の動きやすさを助けることが出来ることを長い時間をかけて学ばせていただいたように思います。

それは、この方の真面目さ、自分を失うことなく生きる強い心のおかげです。なぜなら、うまくいかなくても、粘り強く私を見捨てず関わることを許して下さったからです。だからこそ学べました。多くの場合は、この偉大な気づきの前に関わりを断られ、自分の間違いに気づけないまま仕事が終わってしまうのだろうと思います。

そしてこの長い深い付き合いの中で、施術しながらも、何度も精神的に支えられ、人生の助言をいただいたか知れません。技術とともに、技術よりも大切なものをいっぱい教えていただいたのだと思います。

私の未熟な時を思い起こしながら書いては休み休んでは書いて、書き終えるのに、とても時間がかかってしまいましたが、忘れてしまわないように、彼女の人生についてもう一回書いておきたいと思います。年内に書きたい…と思っております。

時間がかかりすぎて、なまなましい感覚を忘れてしまったこともありますが、時間が経っても忘れられない大切なものを残して下さったように思います。

患者さんとのお別れ

ブログを更新したいと思いながら、毎日何かと格闘していて、落ちついて心を整理することが出来ずにいました。

何かというのは、もちろん治療院がうまくいくように私自身の患者さんの治療についてや、スタッフの治療について考え続けているのは以前から変わらずなのですが、そんなこととは別に自分の中にあるものが本当にこれでいいのかしら、もっと大きくて広いものなんじゃないかと想いを巡らせているとなかなか文章にまとめることができなかったのです。

きっかけは様々ありますが、一番大きなきっかけとなったのは、私の仕事人生の大半をお付き合い下さった患者さんが亡くなられた時の体験が大きいかもしれません。

この患者さんから教わったことは、絶対に忘れることが出来ない、治療師として私の基礎をなすものとなりましたから、是非文章で残したいと思っているのですが、この方が亡くなられた時の体験が私の根幹を揺るがすようなものでしたから、心の様々を表現することがなかなか簡単ではなくなってしまったのです。

この方が亡くなられるほんの一時間前に訪問していました。

食事の量が減り、心臓の働きが落ちてきいたのでいつ何時なにがおきても不思議ではない状態が続いていましたが、ふつうに会話が出来て身体も自力で動かせるところがまだまだ残っていました。

それでも、その時が近いのはわかっていました。

この方とは、長きに渡る付き合いの中で、私なりにお役にたてるよう最大限の努力を重ねてきましたが、精神的には全く反対で、経験豊かなこの方はいつも私たちを励まし、問題解決の提案をして私を助けて下さっていました。

それで終わろうとしているこの方にお礼が言いたいけど、まだ話も出来るのに今までありがとうございますというのもどうかと思いながら、どうしてもちゃんとお礼を伝えたかったので、

「いろいろいつもありがとうです。これからもずっとおつきあいして下さいね」とお願いしました。それは肉体を離れても私を助けて下さいという意味を含んでいました。

すると少し意外そうな顔をされたようにも思いますが、とても嬉しそうな笑顔をして「そうか。こちらこそ頼むで」と言って下さいました。

そしてその方の家を後にして、20分以上車を走らせた次の場所に向かっていました。すると綿毛がフロントガラスに次々と飛んできます。

その時は7月でした。
タンポポがいっぱい咲いている季節ですら、フロントガラスめがけて綿毛が飛んでくることを経験したことがなかったので、近くに“花”がたくさんあるのかとキョロキョロしてもそれらしいものは見当たりません。

それでも次々と飛んでくるのを、不思議に思いながら車を走らせていました。

そして次の目的地に到着してしばらく後にその方の訃報の知らせをいただきました。

その時、私は、あの綿毛は、患者さんが別れを告げに、そしてこれからも付き合えることを知らせに来て下さったのだ確信しました。

わたしはいわゆるスピリチュアルな世界が好きな人間でしたが、一方で目に見えないものは、ないものにした方が治療がシンプルでうまくいくので、経絡の流れや気の運行ということより、目に見える筋肉や皮膚といった物質的なものを指標にした治療に重きを置いてきました。

ですから、見えない霊というものにもあまり興味がなく、「ここに来ると嫌な感じ」といったことも感じたこともありませんでした。

その私に、目に見えるように風に乗って魂が知らせに来てくれたのですから、否が応でも私の世界は半分しか開いてなかったのかも知れないと信じざるを得なくなってしまったのです。

そして、今まで物理的な作用で起きているに過ぎないと考えてきた様々なこと、例えば目の前に落ちる木の葉であったり、目の前を遮る蝶にもっと深い魂-スピリット-の働きを感じるようになりました。

だからといって私の日常がなにか変わったということはないのですが、患者さんの治療という意味では、私が気がつかなかったものがあるのではないか、もっと深く長い時間の中で考えることで、よりよいアプローチがあるのではないかと考えるようになりました。

それで文章にすることが困難になっていたのですが、グルリと一周回って、結局は相手を大切に思うことが最善の治療に結びつくのだから何ら間違いはなかったのではないかと思うに至っています。

ただスピリットの持つ力は気のせいではなく、ただ気がつかないだけではっきりと目に見えてあると言うことに確信するようには日々なっていますので、ますます愛のある治療の大切さを感じるようになりました。

魂の治療ができるよう頑張りたいと思っていますので、私に治療の機会が多くありますよう皆様の応援をよろしくお願いいたします。

この方から教わったことは次回に書こうと思っています。おしんよりすごい苦労を乗り越えて来られたお話です。

雲は風で形をかえます。

片眼で「見る」

金属加工する職人をされていた患者さんのお話です。

大阪城の天守閣の屋根についている金属を全て一人で納品したと言われるので、とてもしっかりとした腕で仕事をされていたのだろうと思います。

使い込んだ身体は、年齢とともにあちこちが悲鳴をあげていました。一番の問題は、めまいだと言われます。
脳梗塞後の不全麻痺(見た目はあまりわからないくらいだけれどやはり普通には動きにくい麻痺)もあるので、室内の移動は出来ても、めまいで室外の移動は困難だと言うことでした。

めまいというのは、脳の問題が隠れている場合もあるのですが、加齢に伴う骨格の変形から耳周辺のリンパの流れが滞ることで起きることもよくあります。そんな時はマッサージ施術によりリンパの流れをよくするだけで驚くほどに改善します。

ひどいめまいは、施術を始めてからある程度の改善はみえたのですが、どうにも頚部の筋緊張の左右差が大きく脳梗塞の後遺症のためかと考えていました。

が、実は若い頃に仕事中に体勢が崩れ、アルミ板で額から口元まで切る大怪我をされ、そのために左眼を失明されたのだそうです。

片眼になると遠近感がわからず、片眼による手元作業に慣れるまで3年くらいかかったそうです。
ほんの2、3㎝の違いがわからず、電車と車が並行して走っているところで、それらがすれ違う時に、その遠近感がわからず、あっぶつかる!と一人びっくりするそうです。

遠近感がつかめないのに、どうやって細かな作業をこなしてこられたのでしょうか?
しかも選りすぐりの腕前なのはなんとも不思議です。

片眼でもみているうちに慣れてくるのかと尋ねてみました。
すると意外な答えが返ってきました。
見ればみるほどわからなくなるので、パッと見てあとは見ないでする方がうまくいくとおっしゃいます。

両眼がきちんと働いていた時と同じように見える前提で必死に見ようとしないで、見えないことを受け入れて、片方の眼とあとは経験に裏打ちされた心の眼で見る方がうまくいくということなのかなと思います。

私たちの仕事も同じことが言えるのかなとしばらく片眼で「見る」ということについて考えてみました。

見えないもの、わからないことをわかる前提で考え続ければ続けるほどに迷いが生まれて、正解から遠ざかるということがあると言えるのでしょうか。それより、心の眼を鍛えていくことに時間を費やす方が正解に近づくのでしょうか。

まだ自分の中ではっきりとした答えは見えていません。
きっと頭の片隅に置いておくことで、ある日成熟し、ヒラメキとなってわかる日がくるんじゃないかと考えることを一旦おしまいにしました。

感じる心やカンというのを言葉で言い表したり、人に伝えるのはとても難しいのですが、思考を超える何かがあるのは多分確かなのだろうと思います。

9月7日土曜日の京都の空です。屋上から北のほうを見ていると、そこにだけ雨が降り注ぐ雲を見ることができました。初めて見る雲の様子にしばらくみとれていました。
雲の筋は少しずつ位置を変えていましたが、私の頭上では星が見えていました。