小室哲哉さんの会見:介護をする方をマッサージして感じること

小室哲哉さんの音楽家としての才能やその他のことと切り離しても、この会見は、長期に渡る介護が、介護者の心身を疲弊させていく悲しみについて深く物語っていると思います。
読まれてない方は、是非一度お読み下さい。

▼小室哲哉、涙の引退会見「悔いなし、なんて言葉は出てこない」(ナタリー)
https://natalie.mu/music/news/265902

私は訪問マッサージを初めて23年目を迎えました。患者さんの悲しみしか見えなかった若い日からすると、介護者の深い悲しみを少しずつ感じられるようになって来たように思います。

介護を知らない方のために、私なりに状況を少し捕捉させて頂きたいと思います。

介護者は、
介護を始めた頃は、慣れないことの連続に、疲れ果ててしまうようです。
オムツ交換やトイレ誘導など身体介護の一回一回は、なんとか出来ても、介護は、一日に何度も、毎日の繰り返しです。足腰の痛みの訴えのない方はまずありません。

また、介護保険のサービスなど社会資源に頼れるようになって身体は楽にはなりますが、他人が家に来てくれるということは、人のスケジュールで生活するということで、経験しないとわからないストレスがあるようです。

その上に、介護が長期化するということは、患者さんにとって、それは成長ではなく、歳を積み重ねる時間の経過ということなのです。

時間が経過すれば、障害がなくても老化は進みます。ですが、障害や疾病を抱えるということは、そのスピードが健康な人より速いということなのです。

つまり、良くなっていくより少しずつ悪くなっていくのが普通のことなのです。
時間とお金を費やしてリハビリをして、(私のマッサージもです)一時的に良くなり、お世話が楽になったとしても、自然の摂理には敵わないのです。

このことが、愛情深い介護者の心を直撃してしまいます。やってもやっても結果が出ないことに心が深く傷ついてしまうのだそうです。

その上に、介護中心の生活は、社会的付き合いに制限を加えて来ます。
介護者が若ければ若いほど、同世代の人と付き合う時間を奪われ、介護の悩みを誰とも共有できなかったりで、介護者のその孤独感は計り知れません。

私は、介護者の方のマッサージをさせていただくこともあります。介護の終わりが来て、縁が切れることもあれば、その後も関わり続けられることもあります。

その時に、いつも私が感じることは、介護が、介護者に与えるダメージの大きさは私の想像をはるかに超えているということです。その大きなダメージに、私のマッサージはなかなか太刀打ち出来ません。その心身の回復には、長い時間が必要なように思います。

介護を経験した人にしかわからない心身の疲弊がつきまとうのが介護なのだろうと思います。美談なんて軽い言葉で言い表わせなのじゃないかと思います。

このような現状は、日本の高度医療の進歩が作り出したものだろうと思います。
もちろん介護保険や在宅医療に関わる人たちは、これらに少しでも貢献したいと思って日夜努力を重ねていらっしゃいます。
しかしながら、長寿や生にこだわる日本人の思考や滅私奉公的な姿を美談と捉える風潮を超えていかないと難しいのかなと思ったりします。

日日介護の現場を目の当たりにしている私の目標は、「楽しく生きて天国に行こう!」です。

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