呪縛からの解放2〜コリはほぐすもの・関節は伸ばすもの、リハビリはゴールを設定して近づくもの⁉️⁉️

呪縛その1 過剰な刺激は弊害の方が大きいという確信を得た出来事

寝たきりで手も足も関節が縮んでうまく動かない、身体も弓なりに歪んでしまった患者さんがいらっしゃいました。
それでも、話しかけるとなんとも上品な受け答えをして下さるので、ベッド から起こして座っていただきながらしばらく話をするのを楽しみにしていました。
ところがある時から、ぎゅっと力を入れて腕がちっとも伸びなくなり、手はむくんでパンパンになり、話も出来なくなり、食事も進まず、ついには浮腫みのため、点滴すら入らない状態で入院となってしまいました。

あんなに腕が浮腫んで入院になったのだから、相当悪い状態に違いないと思っていたら、しばらくしてから、元気になって帰って来られたのです。しかも入院前にはぎゅーと力が入って伸びなかった腕が、曲がってはいますが、力が抜けて楽そうなのです。

入院中はリハビリどころではなく、機能訓練はほとんどなかったようでした。それなのに入院前より力が抜けているとは! 私の衝撃は、口では表せないくらいでした。

縮んだ関節を無理な力で引っ張って伸ばされたら、患者さんは身を守るために必死に抵抗し、そういうことが継続すると最後には力の抜き方がわからなくなってしまうので、全体的な緊張を緩和しつつ、緩んだところを無理のない範囲で自動介助運動を行うというのが私の考え方でしたが、時には刺激量が強く余計に緊張を生むこともあり、常に患者さんの状態をチェックしながら施術を続けてきたつもりでした。

ですから徐々に緊張が増えて、身体が硬く閉じていった時に、体調を崩されているのかとか他の理由を考えていたのです。しかしながら、リハビリのない入院中に、こんなに力が抜けたということは、関わりが強刺激だったことに間違いはないように思いました。

私のやり方で長い間、問題なく緩んで来ていたように記憶していました。ですから、もしかしたら、私ではない誰かが引っ張っていたのかもしれないと考えました。私以外にこの方の機能訓練で関わっていたのは、私の交代で行ってもらった、うちのスタッフとデイサービスのマッサージでした。もちろん、私自身が気がつかないうちに強い力になっていた可能性も捨てきれません。

状態が改善しているので「犯人探し」の必要はもうないのですが、私は以前にも増して注意深く施術するようにしました。
入院前より弓なりの身体はますます弓なりになっていましたが、力が抜けてまた話ができるようになってきています。懸命に介護されるご家族のためにも誤嚥や尿路感染を起こさないよう、床ずれにならないように身体の柔軟性を高め、循環がよくなるよう施術を続けました。

ところが2カ月が過ぎた頃に、再び、身体に力を入り、ほんの少しも動かすこともできないくらいになってしまいました。

私の都合がつかない時に代わりに行ってもらったスタッフに腕を無理に伸ばしていないか確認をしました。
たまの代わりなので、患者さんの身体がよくわからないだろうから、無理に腕は伸ばさず、寝返りや座位をとってもらいながら優しく軽擦(なでること)してくるように言っていましたが、縮んだ肘をみると伸ばさなくてはと、本人としては「無理のない範囲で」伸ばしたと言いましたが、明らかに身体に緊張が増したので、そのやり方は、緊張を生むだけでいいことは一つもないと強く注意をして、代わりに行ってもらうことをやめました。
しかし、それでも緊張が抜けるどころかどんどん強くなっていきました。腕を伸ばす以前になんとか身体中の緊張を抜いてもらうので精一杯です。

うちのスタッフ以外に機能訓練に関わっているのは、デイサービスです。デイサービスのノートを見ても何も書いてありません。ご家族に尋ねてもご存知ありませんでした。どうしたものかと考えあぐねていたある日、家族さんが

「昨日看護師さんが来て、少し強引だけど腕がいっぱい伸びましたと言ってくれたんですが、だいぶ痛そうにしていたんですけどね」と困った顔をして話して下さいました。

看護師さん! 訪問看護さんはずっと関わって下さっています。

私から話してトラブルになりたくありませんし、家族さんから言ってもらうのがいいかなと思いましたが、うまく言えるわけもなく、何より患者さんのことを考えるときちんと話をした方がいいと考え、訪問看護の所長さんとは良好な関係だったこともあり、 直接電話をかけました。

「すみません。腕の緊張が高まっている件ですが、実はうちのスタッフがまだ不慣れな面があり、強く注意しておりましたところ、家族さんからそちらの看護師さんがいっぱい伸びたと報告されたそうで、無理に伸ばすと防衛的に余計に力を入れてしまわれるのではないかと考えていまして…」

と切り出しました。人の話をきちんと聞いてくださる所長さんであったこと、身体の緊張が高まったと感じた時期や患者さんの症状の理解が同じだったことなどから、お互いにしばらくは腕の可動域訓練はしないで様子を見て、改善が見られないようなら、別の理由を考えて対策を練り直すということになりました。

この後、この患者さんは、緊張が抜けてきて少し改善が見られてきたかなというところで再入院になってしまいました😢

理解のレベルは様々であっても医療知識を学んできたはずの医療従事者がどうしてこういうことをしてしまうのでしょうか。

それは多分、一つには、廃用的に筋萎縮・関節拘縮をした身体というのは、健康な状態からはどんどんと離れていってしまうからなのだと思います。簡単にいうと、元々あった場所に、違う筋肉があり、動く方向も変わってしまうので、健康人の腕を伸ばすように伸びるという単純なものではないからじゃないかと思います。

その結果、肘の関節拘縮を改善したくて、力づくで伸ばしてしまうと、肘の関節拘縮はほとんど改善せず、その先の肩の靭帯を伸ばしてしまい、肩が亜脱臼してしまうことも珍しくありません。

文章ではとてもうまく説明できませんが、関節というのは全て螺旋状に動くようになっているので、関節拘縮が進むとき、雑巾を絞るように、腕がねじれていくのです。ですからその改善は、螺旋を戻すように関節を伸ばしていく必要があります。
それで、単純に肘を伸ばすように引っ張ると、その始まりの肩関節が外れるように「作ってある」からなのです。
この患者さんの腕がパンパンにむくんだのは、靭帯が伸びてしまったことと防衛的に過剰な力が入ったため腕の循環が悪くなってしまったからじゃないかと思っています。

これは、長年にわたり、廃用性関節拘縮と格闘してきたからわかったことであり、多分教科書にも書いてないのではないかと思うのです。

ただ、患者さんの苦痛、伸ばしたあとの「成果」をきちんと観察していたら、自分の間違いにすぐ気がつくはずではないかと思うのですが、
関節は伸ばすもの・硬いコリはほぐすもの
という呪いにかかっていて、科学的客観的判断が出来なくなってしまうのかなと思っています。

経験の少ないマッサージ師だから、
機能訓練に専門的な関わりの少ない看護師だから、
間違えたと考える方もあるでしょうか?

そうかもしれませんが、そうだとも言えないくらい、無理やり伸ばすとこうなる一例に確信を得てしまうと、他の症例においても過剰な緊張の原因は単なる廃用性ではなく「人為的なもの」ではないかと考えられることが見えてきました。

次回はリハビリの専門家理学療法士の先生との関わりの話をしたいと思います。

個人を非難するために書いているわけではなく、多くの人が似たような呪いにかかっているとわかってもらい、その呪いから解き放たれて欲しく書いております。ご理解のほどよろしくお願いいたします。そして批判・反論お待ちしております。

山肌に映る雲の影って本当にステキ。いつも山が身近に見える京都の景色は訪問仕事中の心の清涼剤です。

続編:カーテンの端切れ

今朝は、朝から大張り切りで、昨日繕ったカーテンを持って仕事に出かけました。

まずはケアマネジャーさんに電話をかけました。寒くて仕事にならないので、カーテンを吊るしたいのだけど、ご家族に了承を取って欲しいとお願いするためです。

在宅ケアはチームケアですから、うまく出来ないことや特別に何かする時も、ケアマネジャーさんと話し合って決めることが大切です。

特別サービス的な事をする時は、ケアマネジャーさんに間に入ってもらうことで、ケアマネジャーさんと患者さんの信頼関係がより強くなり、その中に自分も入れてもらえる形になると、もっと仕事がしやすくなります。

ケアマネジャーさんを飛び越して、自分が前面に出てしまうと、私一人が抜けがけしたような形になり、チーム全体のバランスを崩してしまい、結果的にはいいケアができず、私の仕事もうまくいかなくなるのです。
悪気はなくても配慮のないこのような行動で失敗したことも何度かあります。

ケアマネジャーさんは、突然の話にも関わらず、私の意図を組んで下さり、すぐにご家族に連絡をして下さいました。

このケアマネジャーさんは、日頃からご家族さんとの信頼関係も厚いので、すぐに了承を得て下さいました。

私は、訪問してすぐ真っ先にカーテンを取り付け、部屋の温度がどうなるか楽しみにしながら、施術を始めました。

今日の昼間は日差しが暖かかったのですが、それでも、いつもは、「強」の風がエアコンから吹き出し続けているのが、サーモスタットが効いて、風がしばらく止まったりしていました。私自身も施術をしながら汗をかきました(暖かな部屋で施術すればすぐに汗が出て来ます)
そして患者さんの口から「寒いからもういらん」という言葉が出ることはありませんでした。

カーテン効果は十分かなと一人で悦に入っているところに、弟さんが仕事の合間を縫って、家に帰って来て下さいました。

弟さんは、お礼を言うために帰って来てくださったのでした。

それで、二人でもう一度、カーテンの重みで外れてこないことを確かめ、部屋がいつもより暖かな事を感じながら家を出ました。

家にあったカーテンの端切れをお持ちしただけなのですが、やり過ぎてはいけないこともあるので、こういう時に思いついたことを実行するのは少し「勇気」が必要です。
トラブルが起きることなく、お部屋が暖かくなって本当に良かったです😌

このワンちゃんのためのこの戸一枚分が寒かったのですよ。
ワンちゃんは、私たちにはちっとも吠えないのに、知らない人が来たらちゃんと吠えたりしています。すごいかしこいワンコ🐶

カーテンの端切れを縫う理由

カーテンの端切れを縫いました。下手くそですが…。

お一人暮らしで、寝たきりの患者さんがいらっしゃっいます。お隣に弟さんがお住まいで介護されているのですが、昼間はお一人です。
それからおウチには、かわいいシーズの老犬が一匹います。

このワンちゃんが、患者さんの部屋からお勝手に自由に出入りできるように戸が閉めてなくて、入り口には、薄いのれんがかかっています。

それでお部屋は、エアコンをいれてもなかなか温まりません。換気が良すぎるのです。

患者さんは、お布団をかぶって寝ていらっしゃるので、寝ていらっしゃる時は、寝汗をかかれることもあり、それほど寒くはないようです。
しかし、マッサージを始めるには、まず、お布団をめくらなければなりません。

元気な方のマッサージなら、お布団の中に手を入れて揉むこともできなくもないのですが、寝たきりの方となると、手足を動かしたり、寝返りをしたりということが、基本的には必須となるので、お布団をめくらないわけにはいかないのです。

それで、身体に毛布をかけたりしながら施術するのですが、

しばらくすると、

「寒い!もういいわ」

と言われてしまいます。

そうですよね。寒いですよね…

毎回毎回、こんな風に途中で終わっていては、仕事の使命がまっとう出来ません。

それで、薄いのれんが遮光カーテンなら少しは違うかと、家にあった遮光カーテンの端切れをチクチク縫ってみました。

明日、弟さんのお許しがいただけたら、部屋の入り口にかけてみようと思います。

これで少しは暖かくなるかなー。

ミシンをかけてみましたが、分厚いためか糸がちゃんと通らずぐちゃぐちゃになってしまったので、手縫いでかがりました。
うちのニャンコは気に入ってくれたようです😌

豊かな心が広がる世界をお互いに共有したい

「デイサービス行っても、することないから、ほとんどの人が机に突っ伏して寝てるか、上むいて寝たはるえ。

お金はろて、来てるのに、もったいないと思わへんのやろか。若い頃、汗水垂らして稼いだお金をあんな風に無駄にして。わたしはかなんから、自分で習字道具買って、そこで練習するようにしたんやで。

90にもなって生きがいのない人生を過ごすなんて、うちはいやや。もう先が短いのがわかってるやろ。時間がもったいないねん」

マッサージしながら患者さんが話してくださったことです。

90歳を超えた人の心がこんなにも豊かで、前向きで力強いことに驚きました。
その方が「老人らしくない」ことに気づいてはいたつもりでしたが、
知らず知らずに、「老人らしさ」をステレオタイプに考えていたことを反省しました。

歳を重ねると、どうしても、出来ないことも増えてきますが、くじけず自分を失わず、自分らしく生きていたら、多くを経験してきた世界というのは、本当に豊かな心が広がる世界なのかもしれませんね。

ただ、この豊かさを理解されず、「老人らしい世界」に追いやられることが悲しみの元なのかも知れないとも感じました。

施術しながら、私はただただ拝聴するだけなのですが、私が行くと元気になると言って下さいます。
それは、マッサージで身体が軽くなることだけでなく、自分のありのままを出せるということなのかなと思うのです。

つまり、豊かな心が広がっていても、それをわかってくれる人がいるということが、大いなる勇気の源となるのではないかと思うのです。

全く「老人らしく」なく、諦めないこの方の日常は、「老人らしい世界」を当てはめようとする「社会」との軋轢だらけなのは想像に難くありませんが、負けずに豊かな生を全うしてもらいたいと思います。

これは、別の方からの頂き物。the 京都のお土産として、最近売り出された老舗和菓子屋さんの商品だそうです。

汗をかいて、頭を使って働くこと

「男やったら、頭使うか、汗かくかして、お金もうけなあかんやん。そう思わへんか?」

百戦錬磨の患者さんがこうおっしゃいます。

「いやー、私は見る目がないし、そんな風に男をみたことがないから…」と答えました。

「男やったら夢やロマンをもって必死に汗かくか頭使うかして仕事しなあかんと思うで」と続きます。

この方は訪問マッサージと訪問リハビリを同時に受けられていて、いつも私に

「なんでこんなしんどい仕事選んだん?あんたみたいに一生懸命する人は少ないと思うけど。」
と言って下さいます。

そして私と訪問リハビリを比べて

「リハビリは楽な仕事やで。足持ち上げるのにちょっと力いるけど、ほんま楽な金儲けやと思う。汗もかかない、同じことを繰り返すばかりで頭も使わない、こんな仕事では、夢やロマンを持つのは難しいと思うわ」
と言われます。

この方の言われていることが、全て正しいとは、もちろん思いません。
こちらの工夫や考えの全てを患者さんに伝えるのはとてもむつかしく、表面的な理解で誤解を招くことがよくあるからです。

しかし患者さんにこのように思われているということに自覚がないのはよくないと思います。「こちらはなんとかよくなりたいとマッサージも受けリハビリもお願いしているのに、頭も身体も使ってない」と患者さんに思われては、実際マッサージが良くしている力になっていてもそのおかげだと感じてもらえません。

今回はリハビリの先生に対する言葉ですが、これは私たちマッサージに対しても同じで、
「なんとかしよう」と工夫する姿勢がなければ、同じように思われてしまうのでしょう。
ですから、相手に伝える努力がやはり大切なのかなと思います。(必死で工夫していると自ずと伝わるものであるように思いますが)

この方は女であって仕事一筋に生きてこられた方なので、男なら尚更という意味で言われているように思いますし、この言葉の本質は、男子とは、ということではなくて、仕事に向き合う姿勢について言われているのかと思います。(とはいえ、魅力的な男とはという極めてパーソナルな問なので、男とはと言っても問題はないように思いますが)

また、職種による優劣より、仕事に向き合う姿勢で判断をされているのだと思いますが、これは私たち訪問マッサージ師にとってとても大きなヒントになるように思います。

患者さんの依頼目的を達成するために、必死の工夫を凝らすことが大切なのであり、理学療法的なアプローチであっても、結果にコミットしているという実感がなければ評価は高くならないのでしょう。

マッサージだから評価が低く、理学療法的なアプローチをしているから安心というような訪問マッサージの宣伝を見たり聞いたりすることがありますが、そうではなくて、結果にコミットしていく姿勢が何より大切だと言われたように思います。

「汗をかいて、頭を使って」頑張っていきましょう❣

雲はあっという間に形を変えてしまいます。だから、撮りたい時に撮らないとすぐに変わってしまう。今しかない!のです。

途中障害の方との関わり

治療院の患者さんの多くは、70歳以上の方ですが、中には働き盛りになんらかの理由で障害者になられた若い方もいらっしゃいます。

私が歳を重ねてきたこともあり、自分と同世代という方も増えてきました。
そのような途中障害の方を紹介していただいた時の最初の面談は本当に緊張します。

その心のうちはいかばかりか、毎日仕事をしている私には理解することが困難な気持ちを抱えて生きていらっしゃるだろうし、不用意な発言で傷つけてしまわないだろうかと思うからです。

自分の身体が思うように動かないということは、いくつであろうと辛いものだと思いますが、人生これからって時に突然襲われる障害を受け入れるのは本当に大変なことなのだろうと思います。

多くの人にとって、生活とは自分のもので、仕事などの社会的な拘束の時間が終わり、家に帰れば、自分の都合で食事を取り、気分に合わせてお風呂に入り、眠くなったら眠る。来客は非日常というのが一般的なんじゃないかと思うのです。

ところが、在宅でケアを受けるということは、自分の生活が来客(訪問介護・看護師・マッサージ・医師など)の都合でコントロールされていくことになるのですから、自分の家にいながら集団生活に放り込まれるようなことではないかと思います。

一人の力では生活がままならないので、支援を受け入れていくしかないのだとは思いますが、自分の身体に慣れていくのも簡単ではないところに、四六時中気が抜けない毎日を過ごすとなると、それ自体に慣れるまでのストレスも相当なものじゃないかと思うのです。

障害者になり、このような生活の細部に起きる変化は、多分実際に体験してみないとわからないのではないかと思います。
仕事をする側としては、当たり前になってしまった日常で、患者さんの中に積もっていくわだかまりや違和感を忘れがちで、患者さんと私の感覚のズレに耳を澄まし眼を見開きながら関わらせていただかないと、気がついた時には大きな溝があるという事になってしまうことを多く経験してきました。

障害者と一括りにはできない、それぞれに違う受け止め方、こだわり、マッサージへの希望などがあり、わかったような気になったつもりでも、本当のところは、長い時間をかけて少しずつしか理解に近づいていくしかないのだとようやく思えるようになってきました。

今年一年は、この人はこうなんだろうと「決めて」いたことが、患者さんの何気ない会話や行動の中で、自分の理解がズレていたことにようやく気がつくということがいくつかありました。

そして、今年の新たな「発見」は、私の中で決めつけていた「大変な暮らし」だけではなく、毎日を楽しく過ごされている姿をようやく私が感じることができましたことです。今までも見せて下さっていたのだと思いますが、私の決めつけがその事を感じなくさせてきたように思います。

自分が相手に対して失礼で傲慢な気持ちでいたのだと反省しながら、でも楽しそうに生きていらっしゃる一面がある事が本当に嬉しくて、ホッとしました。

途中障害の方に関わることは、まだまたわからないことだらけで、治療的にも精神的な関わりにおいてもいつも迷いの中にいます。

それでも、人生を生き延びてお迎えを待ちながら過ごしている「老人」に関わる仕事と同じに考えること自体が、途中障害の患者さんの心を傷つけ、心の架け橋を外してしまうのではないかと思います。
その上で、自分の中で患者さんののゴール設定が見つけられず、迷いながら仕事をする姿勢自体が心の架け橋の始まりになるのではないかと思っています。

二十代の頃は、仕事とプライベートを明確にわけ、仕事の顔で接しなければならないと信じ込んでいました。
五十代になった私は、患者さんと同世代だったり、孫と一緒の世代だったのが子どもと一緒の世代になり、人間とは多面的なものであることを理解し、仕事とプライベートの顔を分けることなくお付き合いさせていただけるようになりました。

愚痴も聞くけど愚痴も言います。
励ましてあげられる時もありますが、励ましてもらう方が多いかもしれません。
仕事ばかりしているので、気の合う友人に会う時間より、気の合う患者さんに会う時間の方が長かったりするので、なんだか遠くの親戚みたいな感じになることもあります(友達でもなく、仕事以外の関わりでお役に立つこともないけれど、縁があるので心配する感じでしょうか)。

治療させてもらうことでお役に立ちたいとは思っていますが、そのおかげでお金を得ることができ、精神的にもいろいろ教えられることが多く、私の方が助けてもらってるなと思えるようになりました。

感謝の心で毎日を過せますように。来年もまた今以上に多くの気づきがありますように、日々精進したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

患者さんからいただいたクリスマスプレゼント🎁来年はこの手帳でがんばりまーす。

いつもの会話を繰り返すこと

「私はアホの見本。私みたいなアホを相手してくれるおかげで、私は幸せに暮らせます」

と言って私を迎えて下さる患者さんがいらっしゃいます。

「アホの見本」⁇
どんなのをアホの見本というのだろうと思い描きます。総合的に考えて、
「あー。私のことですやん」と返事します。

「なんで~。よう言わはるわ。先生は賢いから、こんなアホの世話が出来るんですよ」

「みなさんの優しさのおかげで働けてるんですよ。ほんまにアホは私ですねん」

この方とは、こんな会話を行くたびごとに繰り返します。

認知症の人と話す時は、定番の会話を繰り返すのが本当に大切なのです。出来るだけ相槌がぞんざいにならないように工夫しながら、繰り返す会話は、患者さんに安心感を与えるように思います。

たまに患者さんのことが知りたくて、余計な質問をするとうまく答えられなくて、追い込んでしまい、イライラさせてしまうという失敗をします。

それでいつも安定の繰り返しになるように心がけています。

これは、繰り返しの会話の一部ですが、私は本当にそう思っています。

こんな風に上手に褒めて人と付き合えるこの方を本当に頭のいい方だと思っています。私はとてもこんな風に上手に人に挨拶ししたり、褒めたり出来ません。
話をしながら、こんな風に謙遜される、この方の人生の苦労に思いを馳せます。

この仕事を始めて、24年目になりました。

この24年間は、世間の常識も人との付き合い方も何も知らなかった私が、患者さんに一つ一つ教わりながら、数々の失敗を許してもらいながら過ごしてきた時間でした。

マッサージをしながらする話は、本当に徒然なるままで、今夜のおかずの話から、幼少期の話、人との付き合いの困難さなど多岐にわたりますが、どんな会話にも人生の重みを感じることができて、とても興味深いのです。

二十代からこのような話に触れることで、私の心はかつてない成長を遂げたように思っています。

そして、世間知らずの様々の無礼を許して下さる患者さんの寛大な心のおかげでここまで仕事を続けてくることが出来ました。

おかげで技術の向上・研鑽も出来てきたと思っています。
ですから、私の持てる技術を精一杯次の患者さんに生かすことが一番の恩返しだと思っています。

患者さんの話を聞きながら施術する時間が大好きです。この幸せな時間が続きますように。
精一杯頑張りたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

患者さんからのおすそ分け。カリフォルニアから来たザクロです。日本のと違って甘くて美味しかったです。

大往生

先日、この暑さで、106歳の患者さんがお亡くなりになりました。

先日の大きな地震の時から食も細くなってきていたので、暑さのせいというよりは、本当の大往生だったと思います。

それにしても今まで出会ってきたどの方の最期とも違う、本当に立派な逝き方だったように思います。

主治医の先生が仰るには、食べたり飲んだりできなくなり、枯れるように亡くなるのが一番楽な死に方なのだそうです。
極度の脱水で脳内モルヒネが出て、本人も苦しくなく、夢うつつを行ったり来たりしながら亡くなっていけるのだそうです。

この方はもう栄養を吸収できなくなってきていて、血中タンパクが正常値を大きく下回って来ていました。
ですから先生から、「近いうちです」と聞いていました。

そのとおりに、行くたびに衰弱していかれ、傾眠状態が長くなってきていました。

在宅で「枯れるように」逝かれる時は、誰しもこのような感じなのですが、私が経験したことのない凄さは、もういつ心臓が止まってしまうんだろう、大丈夫かなという雰囲気であっても、こちらの声かけに実にしっかりと、お元気な時のままの声で返事をして下さったということなのです。
声をかけたこちらが意外に感じる反応に驚かされ続けました。

そして、亡くなられる前の日、予定外でしたが、この暑さが心配で、休日の夕方様子を伺いに行きました。

4日ぶりの訪問でしたが、一段と痩せてもう長くはないと一目でわかるご様子でした。呼吸状態も少し痰が絡み、深く呼吸をさせてあげたくなるご様子でした。
それで、訪問看護師さんに連絡をしました。看護師さんは、1時間くらい後に訪問すると言って下さいました。

それまでの間、私ができることは、呼吸状態を少しでも楽にしてあげることだと思いました。
それで、呼吸を補助するようなマッサージをした後、ゆっくりと身体を横に向けて、背中をさすりました。
すると
「そこ!」と大きな声で言われました。
(ああ、ここか。はいはい。がんばりますよー。でもどこにこんな大きな声が出せる元気があるんやろー⁉️)

それから、あまりの酷暑でエアコンが効かず室内は30度になっていました。
フィルターを掃除したり扇風機をまわしたりしてみましたが、温度は下がりません。
暑さのせいでしんどいのか、命が尽きようとする状態なのか判別出来ずにいました。どうしたらようの困ってしまいました。
それで、暑い?と尋ねてみました。
するとまた大きな声で「暑い」と言われました。

(ひえー!暑いんや)
すぐにケアマネージャーさんに連絡して「暑いと言われています。エアコンが効きません」と言いました。ケアマネージャーさんはその後すぐに来て下さいました。

この反応には、本当に驚かされました。

きっと大きな疾病もなくただ大往生の末の命の尽きる様というのはこんな感じなのだろうと思いました。
もちろんこの逝き様は、ケアマネージャーさんを中心に、主治医の先生・訪問看護師・ヘルパーさんと私たち訪問マッサージのチームの支えがあってこその最期だったと思います。

また、その時は考える余裕もありませんでしたが、命が尽きようとするその時にマッサージをしてほしい「そこ」を教えてもらったのは初めてでした。

「そこ」は経穴で言えば、多分、「肺兪」「心兪」あたりなのかなと思います。

亡くなられる前に、「マッサージをしてもらうとその日は楽なんや」と言って下さっていました。
でも、それをポイントで教えていただいたことは、これからの私の治療にとても大きな力になると思います。

うまくは言えませんが、こうして106歳の患者さんは立派に「生きたように死んでいかれ」ました。
「生きたように死んで行く」というのは在宅で多くの看取りをされている秦診療所の秦先生の言葉です。

その後参列させていただいたお通夜の席で、御住職が、
「百歳を超えた命というのは、極限の中にあるそうです。
エベレストの登頂もまた極限の中にあるといいますが、その中で一番こわいのは咳やくしゃみで骨折をすることがあるということなのだそうです。

極限にあるということは、このような日常の行為さえも命取りになるということなのでしょう」
と言われていました。

極限を生きたこの方は、私に様々なことを教え、そしていくつもの忘れがたい記憶を残して下さいました。

鰻を見るたびに私の魂はきっとこの患者さんと過ごした時間にタイムスリップするだろうなと思います。そしてずっとお付き合いをしていけるに違いありません。

心よりご冥福をお祈りいたします。

愛と尊厳の大切さ

「その靴いいなあ。どこで買ったん?」

安い靴ですが軽くてバラの模様が入っておしゃれだなと思って購入しました。
けれど、少し小さかったようで、履いていると足底腱が炎症を起こしたので、履くのをあきらめて、もしよければと患者さんにお見せしました。

いつも私の靴を褒めて下さるし、趣味が合うようだからです。良ければ履いてもらうつもりでした。患者さんは喜んでもらって下さいました。

そしてデイサービスに履いて行ったところ、他の利用者さんから、
「いいなぁどこで買ったん」
と聞かれたから

「私の一番大切な人がプレゼントしてくれたから、どこで売ってるかしらんで」

と答えて下さったそうです。

一番大切な人と言ってもらうとは、照れてしまいますが、そんな風に言っていただけるようなことはなにもしていません。

ただ、身体を楽にするということは、心も軽くなるということなのだろうと思います。
またもう一つ私がとても気をつけていることのおかげかなと思います。

それは、患者さんを、「障害者」や「老人」という枠に入れないように、人生を長く生き抜いた歴史を持つ唯一無二の存在として接するようにしていることです。

効率よく介護を受けやすいようにマネージメントを受け(点数や内容に縛りがあるから仕方ないのですが)、寝たきりにならないようリハビリをするべき対象ではなく、
例え、そうするしかないとしても、その心のうちにある気持ちをそのまま拝聴し、ジャッジしないようにしています。

それが、自分をありのままに受け止めてもらっているという安心感につながり、「一番大切な人」という表現をしてくださったのかなと思います。

人間が人間らしく生きるために必要なのは、美味しい食べ物と心地よい空間、清潔な環境だけではなく、やはり、愛と自分の尊厳が守られていると感じられることなのだろうとしみじみ思う今日この頃です。

ついつい自分の仕事がしやすいように相手を理解しがちですが、このお褒めの言葉を胸に刻み、いつも利用者主体でいられるよう頑張りたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

脳の不思議、自尊心や愛情を感じる心

もう10年のお付き合いになる患者さんが今年に入り、インフルエンザから体調を崩され、入退院を繰り返しているうちに、食べたり飲んだり出来なくなって来られました。

アルツハイマーの患者さんが、末期に嚥下困難になるのは仕方ないことなのですが、もう長いこと、声も聞いたこともないのに、先日は何か話しているのを耳にすることができていたし、いつもの通り、目でちゃんと返事もしてくださいます。

末期じゃなくて、だだ体調不良なだけなんじゃないかと思ったりもしていました。

こんな想いは私だけじゃなくてケアマネさんたちも同じ気持ちだったようで、

「もしかしたらパーキンソン病からの嚥下困難ってことないですか」と声をかけてきて下さいました。

アルツハイマーの初期は、パーキンソン病やうつ病と判別が難しく、この方も診断が下るまであちこち受診したと聞いていました。

最近ではパーキンソン病ではなくても抗パーキンソン剤を処方することで活気が出ることがあり、私の別の患者さんもおかげで発語が増えたという話をご家族にさせていただきました。

そうして、一度神経内科を受診してみようということになりました。神経内科を受診されるのはもう15年ぶりということでした。

もし、パーキンソン病だったら、抗パーキンソン剤でまたいっぱい話が出来るようになったらすごいねなんてご家族と話しながら受診日を迎えました。

神経内科内科の医師も経過を聞き、本人を見て、「そうね。拘縮もないね。とりあえずCTを撮ってみましょう。」と言って下さったそうです。

しかし、CT画像が出来上がった時のお話は、

「治療の段階はもう終わっていて、末期の末期。今まで食べられていたことが不思議なくらいで、明日に亡くなっても不思議じゃない状態です。もう治療出来る段階にはなくて、あとは自然の流れにまかせていくのがいい」

というものでした。

それくらい脳は萎縮して真っ黒に写っていたのだそうです。

少しずつ弱って来られていたので、こういう日を覚悟されていたご家族ですが、その眼は涙で潤んでいました。

はっきりと現実を知らされた私も、思わずこぼれる涙を抑えることが出来ませんでした。
なんだか、今までの長い時間がこれからも続いていくような気に勝手になっていたように思います。

眼を閉じまま、その話を聞いていた患者さんは、最初の出会いの時にはすでに、うまく話すことが出来なくなっていらっしゃったのですが、いつも私と、ご家族の話を聞いて笑ったり、上手に相の手を入れて会話に入って来られるのが常でした。この時も、3人でいたのは久しぶりだったのですが、大きくニヤリと返事をして下さり、脳って何?と思わないではいられないご様子でした。

でも眼を閉じていらしたので、私たちの涙は伝わらず、受診の結果をただ明るく話している風に聞こえたのか、自分が「いらないもの」だと感じていらっしゃるのではないなかという気がしました。

ですので、
「違うよ。みんな泣いてるよ。今までも奇跡だから、これからまだ奇跡を起こしてくれると思ってるよ」と伝えました。

すると患者さんの眼にも涙が浮かびました。

脳って本当に不思議です。

食べることや生きるための基本動作さえ出来なくなるのに、自尊心や愛情を感じる心は元気な時のままなのです。

誰かが死に向かって行くとき、私は出来るだけ冷静に、いつも通りに接するようにしています。今は生きてるから今まで通りが一番の安心な時間になるように思うからです。

でもこの患者さんは、アルツハイマーという病気になることで、自分の存在が悪なんじゃないかというような不安と闘い続けて来られたように思います。ですから、今回は10年分の出会いの感謝をいっぱい表現しながら、思いっきりうろたえて、最期の時を迎えたいと思います。

アルツハイマーでも何にも出来なくても生きていいやん。今まで必死で頑張ってきたやん。楽して人の世話になったらいいやん。私は来るたび癒してもらってるやん。ありがとうですやん。

いっぱいいっぱいもっといっぱい、その感謝を伝えてあげていただろうかと振り返ってしまいそうです。

今さらながら、いっぱい伝えていきたいと思います。

猫って見てるだけで、こっちまでのんびりとした気持ちになる。あくせく何かに囚われてばかりの自分が馬鹿らしく思える。認知症の人と付き合ってるとそういう同じような気持ちにさせられる。