嬉しいことがありました

 とっても嬉しいことがありました。

 訪問を初めてもうすぐ一年になる統合失調症の患者さんがいらっしゃいます。

 下肢の浮腫があり、歩行困難になってきていて、外出中に転倒したり動けなくなり警察に保護されるということが増えてきたからと、主治医がマッサージを勧めてくださって、訪問するようになった患者さんです。

 この方の下肢の浮腫は、生まれつき体質的に関節がゆるいため、筋力低下に伴い、関節の指示力が低下し、過伸展になることで血流が阻害された結果の浮腫でした。
 このような場合は大きな問題があるわけではないので、比較的マッサージと運動療法が有効で、定期的な施術により脚が重くて歩きにくいというような状態は改善していきました。

 患者さん本人も心地よいと大変気に入ってくださって、問題なく週一回の訪問を続けてきました。

 この方は生活の予定が変わると様々対応が難しく、一つの変化が生活全般に支障を来たすレベルになるということはわかっていたのですが、どうしても時間の都合がつかず、訪問時間を変更していただくことになりました。すると、そのことが不安要因になってしまい、本人の混乱をきたすことになってしまったのです。
 そこで、時間の調整を再び考え直すこと、また他の関係者の方々にもご迷惑をおかけしたことを詫びようとケアマネジャーさんに連絡をいれました。

すると、ケアマネージャーさんがこうお話してくださいました。

「マッサージ導入後、マッサージが生きる希望に繋がったようで、歩行も安定し、警察に保護されることもほぼなくなりました。精神が安定しない時に服用していた頓服の服用量が半分以下になり、本人が前向きに生きようという発言が見られるため、向精神薬の処方を減量する方向で考えています。関係者のみんなもこれはマッサージ効果だと言っているので、訪問時間の変更が必要なら他のサービスを調整することができます」

 この仕事をして、25年。様々嬉しいお言葉をいただいてきましたが、こんな嬉しいことは初めてです。マッサージの何が生きる希望になったのがわかりませんが、もうそんなことはどうでもよくて、ただただありがたく、私の方がこの言葉を胸に明日からの大きな希望を頂きました。

 この患者さんは、この先自立に向けた大きな目標をお持ちです。その目標に向かって、ともに取り組んでいこうと思っています。

 本当にありがとうございます。
 ますます精進して参りますのでどうぞよろしくお願いいたします。

共有するリラックス

先日ふと、本当にわたしはマッサージがうまいといえるのかとじっくりと考える機会がありました。

下手ということはないけど、自費治療で予約も取れないというような繁盛店ではないのは、やはり治療の組み立てが上手くないということや、患者さんの身体に対してきちんと見通しを立てた治療にまだまだ甘さがあるからなんだろうという結論にいたりました。普段からツメが甘く、感覚的に生きているので、治療もほとんど自分の感覚だけを頼りにしている面があります。そんなだから、施術後にあまりの下手さに自分で悶絶して泣きたくなる時もよくあります。

冷静にまわりを見渡すと、腕の良い先生方が数多くいらっしゃるな、とてもかなわないとしみじみと思うのです。にもかかわらず、わたしは、自分の治療がだれにも引けを取らないと思う「自信過剰」な面があります。それは、わたしの治療ではなく、患者さんの身体が結果を出してくれるという経験の積み重ねがあるから、つい自分がすごいんじゃないかと勘違いをしてきたのでしょう。患者さんの身体の変化は私の技術の結果ではなく、患者さん自身の治癒力の発動の結果だという事にようやく気がつきました。

つまり、わたしの治療は、技術的なこと以上に、患者さんのマインドに影響を与えていて、患者さん自身がなんだか病気でいるより元気でいる方がいいぞ!っていう感じでリラックスして自己修復に向かって行かれるというのが正確な評価なんだと気がつきました。

特別なにかを話したりするわけじゃないのですが、強いて言うなら、マッサージをしながら話される話を聴いているうちに、病気になられるまでの患者さんの心がわたしに流れ込んできて、二人でその辛かった時間を共有しているうちに、病気に向かっていった心が健康に向かい直したくなるという感じじゃないかと思います。

職人技を身につけてきた自分が好きだし、職人として生きている自分を誇らしく感じてきたので、技術以外で「癒し」ているという結論に少しガッカリですが、訪問マッサージのお仕事の依頼をいただく時、「心をほぐしてあげて」と言われることが多くて、いやいや身体がほぐれるから心がほぐれるんやでと心の中でちょっぴり反論していましたが、依頼して下さる人たちの方がずっとわたしをわかってくださっていたということなのですね!

これからは、自分は技術的なこと以上にリラックスを共有できる「技」があるという事を受け入れて、また、技術も自信を持てるよう精進し、さらにパワーアップした施術をしていきたいと思います!よろしくお願いします。

#マッサージ#訪問マッサージ#悠生治療院#京都#そら#sky

定期的な施術の快適さ

悠生治療院のweb担当者が、なかなか動けない私のために素晴らしいリーフレットを作ってくれました!

多くの皆様に支えられて、身体を整えるお手伝いをするという事の意味を知り、患者さんのエネルギーを最大限に発揮できる施術が少しずつできるようになってきました。

日々疲労が溜まり、老化に傾く身体のコンディションを整えるには、定期的な施術が一番です。

自費の場合、回数が出来るだけ少なくて済むような施術を長い間目指してきましたが、自らも50代の肉体を抱えながら生きていく身体の重さを感じられる年齢になり、定期的な施術による快適さはお金には換えられないという事を感じていただくことが大切かと思うようになりました。

強くて力強いだけではない、マッサージ施術が終わった後に、身体の鎧が一枚剥がれるような感覚の施術を味わいに是非ともご来院下さいませ。

心を込めて施術させていただきます。

患者さんの物語『おはつ』

「おしんも真っ青、『おはつ』ってテレビで放映してもらなあかんなぁ。私に文才があったら書いて売り込みにいくのに」

初めてお別れを言えた患者さんは、いろいろなご自分の話をよく聞かせて下さったので、私はよく冗談混じりに、でも本気でこう言っていました。

東北で生まれ育ち、幼い頃に父親を亡くし、母方の親戚に引き取られたために、小学校に行くことも出来ず、ずっと子守ばかりさせられていたこと。
バケツで水汲みにいかされ、家に着く頃には、バケツの水が半分になっていたとか、桑の実をこっそり食べては、口が紫色になってすぐばれて怒られたこと。
ようやく子守りから解放され、東京の紡績工場に勤めて、お給金をいただいて暮らせるようになったのに、お母さんに会いたくて手紙を書いたら一緒に暮らそうと言われ喜んで工場をやめてお母さんの家に行ったら、炭鉱を経営している義父に鉱山から石炭や人夫を引き上げるウィンチ巻きの仕事ばかりさせられたこと。
「お母さんは前夫の子どもの私が邪魔だったんかな」と言いながら、それでもお母さんが亡くなる時は病院に行ってお世話してあげたことも話して下さっていました。

また、そこで結婚相手を見つけて、結婚をしたと思ったら酒グセの悪い男だったので、首も座らない乳飲み子を籠に入れて子守をしながら紡績工場で働いて大きくしたこと。

二度目の結婚の男ともうまくいかず、京都で苦労しながら一人で子育てをした話。大人になってから自分で文字を書けるように努力したこと。
ようやく子どもを成人させてから孫を育てなければならなくなった話。
今は、その孫に介護を受けていて、苦労して孫を大きくした甲斐があった、こんな優しい子になるとは思ってもみなかったなどと話をして下さいました。

映画を観ているように語られる話に、聞いている私が一人涙を流してしまうこともよくありました。
彼女の苦労話は、彼女個人のものですが、戦前の東北の貧しさや、当時の人々の生活を想像するに足るもので、苦労というのは人をこんなにも強くたくましくする一方で、幼少期の傷が一生に渡り影を落としていくものだと思うこともしばしばでした。

誰一人として知った人のいない京都での子育ては、本当に大変だったみたいで、よく2人で、京都に溶け込むことの大変さを話し合いました(私も地方出身なので)。
また、幼少期から大人になってまで続いた困難な生活の中で、人と本音で付き合うことの怖れが身に染み付いているようにも感じました。
いろいろ言って下さってはいても、本音の部分は家族以外には絶対に見せないという硬いガードが見え隠れしていたのです。

それが付き合いが一年また一年と伸び、機能が低下してくるにつれ、私が言うのは本当におこがましいのですが、一皮も二皮も剥けて、なんとも言えない深い味わいになっていかれるのが側でいた私にはよくわかりました。
どんな大変な話も深刻な話題も冗談めかしの表現になっていった様子に、諦めと自分を失わない強いものを感じて、最上級のブラックジョークを聞いているみたいで、私はいつもケラケラと笑いながら、心の底からいつか私もこんな視点でものを観られる人間になりたいなぁと思っていました。

あんまりにも私がケラケラ笑うから
「安井さんは私がなんか言うとすぐ笑う。なんでや」とよく言われていましたが、それは付き合ってきた全てを凝縮したような楽しさだったから言葉でうまく表現できないのでした。

確かに最初は、私が「癒す側」でしたが、この頃から私が「癒される側」になっていったように思います。

私の子育てのことや、職場のスタッフのうまく出来ないことも「ここに送ったら私が上手く言ってあげるから」などと身体のケア以外は私の方がずっとお世話になっていたように思います。

この方に限らず、大概はわたしより歳上だったり、障害を受けたことで深い経験をされている方が多いので、治療に行かせていただきながらも、精神的には私の方が癒されることが多いように思いますが、このおうちでは、とりわけても心地よい気持ちで施術させていただいていたように思います。

長いおつきあいがおしまいになってしまって、もうあの最上級のブラックジョークを聞いて癒されることはなくなってしまいましたが、きっと遠くで孫達を見守っているついでに、私のことも見てくださっているに違いないと思っています。

いろいろなことを学ばせて頂いた私は今年はさらにパワーアップして、身体だけではなくて、もっと奥深いところに働きかけられるような、心が元気になるような治療を目指して行きたいと改めて思っています。

どうぞよろしくお願い致します🤲

ハートの中にペガサス(ペガサス)が。ペガサスみたいに飛ぶ一年に。

2020年 明けましておめでとうございます

🎍明けましておめでとうございます🎍

2020年が、皆様にとって素晴らしい歳になりますように。またそのきっかけとなるような治療ができますようにスタッフ一同、心を込めて頑張りますのでどうぞよろしくお願い致します。

悠生治療院において、昨年はスタッフの入れ替わりがありました。
新しく来てくれたスタッフは、“按摩が大好き、ホンモノの按摩さんを目指している”という新人です。

その姿に、マッサージの専門学校時代に、按摩術の流れるような手つき、身体の上で音楽を奏でるようなリズミカルな動きに魅力されたかつての私を思い出しました。
彼女の施術へこだわりが大きいことにとても期待しています。

私としては、私の学んできた全てを伝え、本人仕様にさらに昇華させて行って欲しいと心から望んでいます。それが未熟な私に身を任せ経験を積ませて下さったかつての患者さんたちや保険を使って治療させて下さっている社会への恩返しだと思っているからです。

しかしながら、ニューフェイスにとっては、右脳的・感覚的な私の説明はなかなかピンとこないようです。そんな時、別の男性スタッフが翻訳してくれると理解が進むようです。

このやり取りを見ながら、男性スタッフが長い時間をかけて私の言葉を自分仕様に組み立てて理解してくれていたことを知り、申し訳なさとありがたさが混じり合って、とても幸せな気持ちになりました。

按摩マッサージ指圧師に限らず、人間が手で施すことのできる手技に特別なことはないように思います。
気持ちいいと患者さんに感じてもらえることや痛みや機能の改善に、その差がでるのは、身体の中で起きていることへの理解にあるのだと思っています。
目には見えない、レントゲンにも写らない、本人の自覚を指先で起きていることを理解する力と、身体に対する信頼が大切なのかなと思っています。
身体は示す反応は全て必要があって起こしている、ただ、身体のバランスが崩れた時には身体の示す反応も過剰になってしまうので、バランスが取り戻せるように調整することが施術師の役割だと考えています。

理論的にはとてもシンプルなこの理屈も、実際は筋肉のつき方など個人差が大きく、施術師は、その循環を阻害している「石」を取り除き、あとは自力で転がる力を信用する方が、本人仕様の完璧なバランスに近くなるのですが、このさじ加減が難しく、毎日がチャレンジと発見の連続です。

このさじ加減や患者さんとの身体の対話が楽しめるようになると、もうやみつきで、時間にとらわれず、患者さんがもういいのにという気になっても、

ごめんなさい、もうちょっと、いいところなんですわー(・_・;

ってことになります。時間で終われないのは、プロとしては二流かもしれませんが、一流の按摩師を目指すなら大切なこだわりでもあると思います。

ただ、この技術へのこだわりが真の治療力に結びついていくには、患者さんへの共感力なしには不可能なように思います。
患者さんを置き去りにした技術は、独り善がりなもになるからです。
つまり患者さんへの共感力こそが本物の按摩さんへの道なのだと思います。

ニューフェイスには、すぐに手に入らないもどかしさを抱えながらも、自分を受け入れて施術させて下さる患者さんへの感謝を忘れずに前に進んでもらいたいと思います。

私は、人に伝えるために、もう少し他の方々の技術を学んでいきたいと思っています。本を読むのがゆっくりなので、読み進めなくて困っています…

そして願わくば、私の施術が、患者さん自身がそれぞれの治癒への道を歩いてくださるようサポート出来る力を身につけていきたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願い致します🤲🤲

ワクワクできる未来にむけて

先日、ある患者さんのことで、病院の訪問リハビリの先生から問い合わせのお電話がかかってきました。
「どんなことをされていますか?」

訪問看護師さんからの紹介の患者さんで、もう5年くらい訪問させていただいています。
年齢が若く、お一人暮らしなので、リハビリがとても大切な要素になっている方でした。

今回お電話をいただいた訪問リハビリの事業所さんも、私たちより長いお付き合いだと聞いています。

ところが、訪問リハビリと訪問看護、そしてマッサージがうまく連携できずに今に至っていました。

大きな理由の一つは、介護保険ではなくて障害者の自立支援によるサポートの中では、介護保険のような細かな縛りがなく、ケアマネジャーがはっきりと舵取りをしなくとも、本人がしっかりと自己主張できるため、多職種の横のつながりが薄くても物事が進行するということだろうと思います。

ここの訪問リハビリの先生は若い女性だったので、経験年数からしてこちらから声をかけて連携を取れたらよかったのですが、マッサージ師という私の立場を考えるとなかなか声をかけにくいものがあり、うまく連携が取れていませんでした。

マッサージ師から、リハビリの先生に何か言うのは難しく、私の意図や考えを正確に伝える自信もなく、こじらすくらいなら黙っている方がまだいいと長い間この状況をそのままにしていたところ、電話をいただいたのでした。

リハビリの先生が交代されて、新たに方針を再確認して仕切り直そうというお考えのようでした。

私の方でもちょうどこの方への関わりは行き詰まってました。
立ち上がり・立位保持は安定してきたのですがこの先の歩行の可能性をどうするか、リハビリの先生と連携をしないと難しいのではないかと考えていたところでした。

新たな出発でどちらに向かうかはまだわかりませんが、少なくとも今よりは前に進んでいくように連携をとっていきたいと思います。

今日その患者さんを訪問し、お電話をいただいた話をしました。

するとその新しい先生は、この患者さんが15年前の発症直後に入院されている時に、見て知っていたということでした。
そして、その時の姿からは、今のように機能が回復しているとは考えられなかった、想像を上回る回復だと言って下さったそうです。

服薬、リハビリ、マッサージ。それから生活の何が回復の力か定かではないとご本人は言われましたが、とにかく

「すご〜い!」と思います。

そして、そんな評価をしてくださる方がチームに加わってもらえるとはとても嬉しいことです。

失われた機能の回復は簡単なことではありません。
多分回復への一番のエネルギーは、この方自身の気持ちの強さに違いありません。

そして、これからも、少し遠い先に少しでもワクワクできる未来が思い描けたら、それだけでもまた、更なる生きるエネルギーになるんじゃないかなと思います。
思い通りの回復が手に入らなくても、その関わり自体が楽しい時間になることで、大きな生きるエネルギーの源になると思います。

私自身もリハビリの先生に伝える言葉をもっと勉強して、一緒にワクワクを作って行きたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

最終回 呪縛からの解放5〜コリはほぐすもの・関節は伸ばすもの、リハビリはゴールを設定して近づくもの⁉️⁉️

呪縛その4 コリは揉みほぐすもの。強い力で揉めるマッサージ師は上手い。

「もっと強く揉んでと言われたら、ジーパンの上からでも、例えベルトの上からでも、にっこり笑って押さなあかん」

私が最初に按摩を教わった師匠に言われた言葉です。

「按摩を買う」こんな言葉がまだ生きていている時代(今もそういう風潮はあるのかなとも思いますが)お客さんからバカにされないように、技術が誇れるように、絶対にコリに負けないで押さなければならないと教えられました。(わざと固い衣類を身につけて試すようなことをするお客さんもいたのかなと思います)

按摩を始めたころは、コリに負けずに押し続けたせいで、翌朝は腫れた親指が痛くてものがつかめませんでした。
それで、毎晩、仕事が終わった後は、流水で指が痺れるまで冷やしていました。(これも師匠から教わりました)

そのおかげで、私の親指の関節は、見た目に変形しているとわからないくらい真っ直ぐです。

でも実際には、突き指状態に関節の間を狭くして、体重を乗せれば一本の棒のようにコリに突き刺さる道具のように変形させています。ですから、この指はそんなに強い力で押さなくても、まっすぐに圧がかかるように作ってあります。このように変形さすのに、3年くらいかかったように思います。

私の師匠は男性で力が強い人でしたが、その師匠の師匠という人は、小柄な女の方でした。しかし、とても指が強くて、背中を揉んでもらうと、まるでコンパスの針が背中にプスリと刺さり、クルクルと回っているように繊細にコリに指がまっすぐに入ってくるそんな指でした。

最終的にはその女の方に教えていただいたので、私にとってコリを強い力で揉みほぐすというのは、按摩師としてプロの証明のようなものでした。

私自身が、強く揉めることを追求してきたので、この呪いに気がつくまでとても長い時間がかかり、その事に気がついてからも、強く揉んでほしいと言われると必要ないと言えず、どこまで強い力でほぐすべきかまだ模索中です。

しかしながら、必要以上に強い力で揉むことは、身体に新たな別の問題をもたらす可能性が高いことは明らかなように思います。

強く揉みすぎて、翌日に筋肉が炎症を起こすということがよくニュースになっているように思いますが、それは、多分、その多くの場合は、筋肉の走行を無視し、筋繊維をぶった切るように押圧しているためであって、強い弱いというような問題ではなく、按摩術の基本から外れているから起きる事故ではないかと考えています。(習いたての頃の私がそういうことが絶対なかったとは言い切れないのですが…)

そうではなくて、

コリというのは身体のバランスがなんらかの理由で崩れた結果の不快感であり、そのコリを他の原因を考えずに、その局所だけを丹念に強く揉みほぐした結果に起きる問題について考えています。

例えば

うちのスタッフの患者さんの話です。

若い頃にアキレス腱を完全ではないけれど、断裂した患者さんがいらっしゃいました。
手術をせずにそのままにしておいた足は、つま先立ち歩きになっていて、そのためかその側の肩がこるというのが主な訴えでした。ご本人はとにかく肩を揉んでほしいと言われます。
肩を強く揉むと、満足されるので、施術時間の半分を肩の施術に充て、残り半分で他の部位を施術するようにしていたそうです。

しばらく問題なく、訪問を楽しみにして下さっていたのですが、3年をくらいすぎた頃から、アキレス腱を断裂した側の股関節の痛みを訴えられるようになりました。

股関節痛というのは、先天的な形成異常やスポーツでの過剰な使用や外傷以外があれば別ですが、日常生活で痛めることが少ない関節です。アキレス腱の断裂は何十年も前の出来事であり、そのためとは考えにくく、肩凝りを重点的に揉みすぎて、身体のバランスが崩れたためではないかと考えました。

一般的には日本人の体型で下肢に問題がある時、股関節を外転させ、筋力不足を補います。股関節が開くと肩関節は、そのバランスを取るために自然と閉じるようにできています。

肩関節を閉じた結果、肩凝りを感じるとすれば、開いた股関節の負担を軽減しつつ、肩凝りの軽減をはかるのが大切かと思いますが、つい患者さんの「気持ちいいわ。あんた上手いなぁ。力が強いなぁ」という褒め言葉にのって施術時間の半分(!)を肩に費やした結果、必要以上に肩だけが開いてしまい、開いた肩に合わせるように股関節が閉じてしまいバランスを失った結果、痛みが出現したのではないかと考えました。

施術の配分を変えても、しばらく痛みは続いていましたが、ちょうどその時、内臓疾患で入院され、股関節の負荷が減り、マッサージ施術もなくなり、身体がリセットされたのではないかと思います。退院後は、股関節の痛みの訴えはなくなりました😭。
その後は、バランスの良い全身施術を続けていて、大きな痛みやトラブルなく過ごしていただいているように聞いています。

これはうちのスタッフの失敗ですが、強く揉みすぎることの弊害は長い年月をかけて現れたりするので、継続的な治療をしていないと自分の施術結果はわからないことも多くあるように思います。

痛みが出る前にすでに、身体の変化を感じ、なんだか少しおかしいと思うこともありますが、患者さんの
「もっと強く押してほしい」という要求をはねのけるのはなかなか勇気のいることなのです。

私自身、背中のコリでご飯も食べられない、痛くて立っていられないという患者さんの施術にあたっている時の話です。

その症状を疲労からきているものだと考え、四肢の筋緊張の取り除きながら背中のコリ、痛みの軽減をはかりました。
しかし、なかなか症状が改善せず、背中の張り、コリも改善しません。それで、患者さんからの痛みのあるところをもっと強く押してほしいという訴えのまま、自分の方法が間違ってたかもしれないと考え、私の中の必要と考える以上の強さで施術していました。

しかし、あまり続く痛みを不信に思った患者さんが、改めてMRIの撮影を申し込んだところ、腰椎の疲労性の圧迫骨折後の痛みだったことがわかりました。

普通ではないハリとコリを感じてはいましたが、まさか圧迫骨折が起きていたと考えなかったこと、患者さんに言われ、骨折後の身体を守るために固めていた周囲の筋肉を揉みほぐしてしまったことに大きなショックをうけました🤯しかし、上から押したりせず良かったと心から思いました。もしそんなことをしていたら、他の箇所も圧迫骨折を起こしていたかも知れないからです。

コリを強い力でほぐすという呪いは、本当に大きく根強いものだと思います。

私の経験ですが、普通に老化が進む身体では、その身体の縮み方にある一定の法則があるように思います。

下肢の関節に問題を抱えている、麻痺がある、喘息など肺機能に問題がある。
あるいは、
職業による偏った身体の使い方をされている場合でも、その法則が見て取れます。

マッサージなどの施術は、その崩れたバランスを助けることが第一目的なのでしょうが、強くて多い刺激こそが、「上手い」という呪いのおかげで、法則から外れた、自然な老化ではありえない身体にしてしまうような危険性があると思うようになりました。

これは、マッサージ施術だけではなく、医師による投薬、子育て時の過剰なケアや教育など、あらゆることに当てはまるもので、マッサージ師だけが特別に、先を見通す能力が低い訳ではないと思います。

それでも人様の身体の治療に関わる私たちは、無意識のうちにかかっている呪いから解き放たれ、患者さんにとって真に利益になるような関わりを模索し、その力をつけていくことがプロとしての証しなのではないかと思うのです。

私の親指。親指の付け根は完全に変形しています。

呪縛からの解放4〜コリはほぐすもの・関節は伸ばすもの、リハビリはゴールを設定して近づくもの⁉️⁉️

呪縛その3 機能訓練は本当に機能を向上させることが出来るのか

今日仕事に行った先での出来事です。

片麻痺で左不全麻痺(動かないわけではありませんが、器用には動かない麻痺の状態)があるけれど、自分のことはほとんど自分でできる患者さんが、私が来るのを待ってたように話をされました。

「ちょっと聞いてー。」
「昨日デイサービスに行って、お風呂から上がった時に、私みたいに手の動かない人がいて、その人は、私と違い、(患側肢の)指が三つ編みみたいになっていて、少しもつまんだりできないから、シャツが着られず困っていたので、少し手伝ってあげたんです。私も不自由だけどまだ動くから、片手で一生懸命手伝ったんです。
お風呂上がりで、はだかのままだと冷えて寒くなるし、少し手伝ってあげたんですよ。
そうしたら、職員さんが、
“手伝わないで、一人でやらせてあげて、リハビリだから”
って怒らはったんです。

私たちは、毎日家でなんとか頑張っているけど、片手で着替えるのは本当に大変で、お風呂上がりは特に濡れていて、片手で届かないところが引っかかるし、息が切れてハァーハァーするんですよ。リハビリのつもりか知らないけど、少し手伝ってくれたらいいのに、職員さんは、何のためにいるのか、怠けているのかなと思うんですよ」

このような話を聞くのは、初めてではありません。ここのようにリハビリを前提としたデイケアでは、普通のデイサービスと違って少し厳しいようです。

似たような話は他でもよく耳にします。

「怠けたいから手伝わない」わけでは決してないのでしょうが、こんな風にしか思われないやり方で、本当によい結果に結びつくのかなと疑問に思います。

こんな風な「若者」とのすれ違いを経験した患者さんの多くは、悔しくて「がんばろう」となるより、情け無い気持ちになって「早く死ねたらいいのに。コロッといかへんかな」と口にされることがよくあります。

機能訓練は、「出来ないこと」を評価し、その改善のためにプログラムを立て実行する。

これは、リハビリとしては当然の流れだと思いますが、相手は「どうやって死んでいくか」を考えているような方々なので、出来ないことを楽しく乗り越えられるならいいのでしょうが、苦労して獲得することに意味を見出すのは難しいこともあるように思います。

このことに、いち早く気がつくのは機能訓練をする側ではなくて、患者さん自身です。

やってもやっても良くならない、何のためにしているのかとなるのですが、出来ない自分が悪いのかもしれない、やめると寝たきりになったら困るという気持ちでいろいろなすれ違いを飲み込み、機能訓練を続けていらっしゃるようこともよくあります。

本当に、機能訓練をすれば出来ないことが改善したり、寝たきりを防ぐことができるのでしょうか?

私自身、介護保険以前から訪問マッサージに携わってきたので、訪問リハビリのサービスが始まるまでは、機能訓練の関わりを期待した仕事をたくさんいただいて来ました。

その頃は、私自身、機能回復・改善を絶対のものとして取り組み、寝たきりにならないためには、患者さん自身が弱っていく自分と闘い、それに立ち向かうことが必要だと考えていたように思います。

そんな時に、感染症から大腿部切断となり、そのショックで全くリハビリが進まず、起き上がることすら出来なかった患者さんに関わらせていただいたことがあります。

その患者さんの家には、一度も使われなかった義足がありました。私は、患者さんが、歩くことが出来たら、足を失ったショックから立ち直って下さると考え、義足による歩行に取り組みました。

初めてのことで、その装着の仕方など基本的なことから病院のリハビリの先生や義足屋さんに教えていただいたり、本を読んだりして、進めていったように思います。

患者さんは、起き上がることにすら、怖さを覚えていらっしゃったので、立つことや、ましてや義足で歩くことは本当に怖かっただろうと思いますが、数ヶ月後には、義足と4点歩行器という「杖」で、室外歩行が可能なレベルにまで到達することが出来たのです。
その時の私は、素晴らしい回復にとても満足していたように思います。

しかしながら、その患者さんにとって、失った足の代わりに得た義足の歩行は、怖くて面倒なものにすぎませんでした。

結果的には、ベッドと車椅子で暮らす生活がスムーズにこなせるようになり、また家族さんの負担は減り、老夫婦の穏やかな生活を送ることが出来るようにはなられましたが、足を失った悲しみは癒えることはなく、生活の中で、義足歩行をされることはありませんでした。

私は、自分の考える目標を患者さんに押し付けていたことにようやく気づくことが出来ました。穏やかな生活を目標にするなら、もっと私の訪問が待ち遠しくなるような他のやり方で良かったのです。

またその一方で、機能訓練は嫌だけどマッサージならしてもいいという仕事をいただくことも増えてきました。

マッサージが終わった後に、
「身体が軽くなった、これで元気がでて頑張れるわ」と言っていただいたり、

機能訓練はいらないけれど、マッサージの後なら身体が軽くなるから、歩いてみるのは嫌がられないということを多く経験するようになってきました。

あるいは、デイサービスもヘルパーさんもいらないけれど、マッサージならきてもらいたいという仕事をいただくこともあります。「ガンコで頑な」な人というのは、どんなに時間がかかっても、自分のやり方で生きていて、生活もなんとかされているという方で、そういう方々を多く目にしてきました。

加齢や障害があっても、自分を失わず生きていらっしゃる方たちの生き方に触れることで、機能訓練こそが寝たきりを防ぐという、私の中の呪いが少しずつ解けていったように思います。

生きることを支える一番大きな力は「生きたい」と思えることなのではないかと考えるようになってきたのです。その気持ちが一瞬であろうと湧いてくる時間を提供することが、何より大切なことではないかと思うようになりました。

機能訓練をすることが一番という呪いのため、患者さんの気持ちとすれ違っていても、提供している側は、気がつかないのではないかと思うのです。

患者さんの「生きる」を支えることが一番だと気がつけば、専門家として様々な角度からアプローチが可能になり、もっと効果的に関わっていけるのではないかと思います。

ある患者さんが、
「往診の先生は、9割人柄が大切だと思います。技術は1割でいいと思います。もし誤診で命が終わったとしても、あの先生が間違わはったんならもういいわ。年寄りはそう思うと思いますよ」
と話して下さいました。

人柄というのは、自分の気持ちに寄り添い、身体も心も任せられるということではないかと思います。
これが私たちがいつも心に留めておかなければいけないことなのかなぁと思っています。

機能訓練について考える時、この文章を書きながら、私自身に深く根ざしている機能訓練の呪いにようやく気がつき、書くことで、私の呪いを解き放てたように思います。自分の犯した罪を考えなおすのはつらいものですが、次の患者さんに必ず返すから許してくださいと祈りながらの作業になります。

次回、最後の呪いは私たちマッサージ師の大いなる呪い、コリは強い力で揉みほぐすものです。

ネコが人気なのは、呪いから自由だからじゃないかな。

呪縛からの解放3〜コリはほぐすもの・関節は伸ばすもの、リハビリはゴールを設定して近づくもの⁉️⁉️

呪縛その2 何のために関節は拘縮する?

寝たきりになると、関節が硬くなり、手足が曲がり、オムツ交換も更衣も大変になってしまいます。動かなくなると関節が硬くなるのは骨折後のギブス固定で関節が固まってしまうのと同じことです。

ところが、寝たきりの患者さんがみんな同じような形で関節拘縮が進むかといえば必ずしもそうとも言えないのです。

麻痺のあるなしだけではなく、元気な時の筋肉のつき方、性格、寝る時の姿勢などが関係しているのかなと考えていますが、本当のところの科学的客観的データはないのではと思っています。

因みに脳卒中などの後遺症の痙性麻痺(ケイセイマヒ、硬く力が入って意図的に動かすのが難しい状態)の関節拘縮の形も、多くの人は曲がってしまう形に力が入るのですが、中には突っ張ってしまう形になる人もいらっしゃいます。不思議に思ってお医者さんに尋ねたことがありますが、理由はわからないとおっしゃっていました。

人体というのは、身体の中で何か起きても、二重、三重に張り巡らされた防衛策があり、少々のことでは異変をきたさないシステムを持っていることを考えると、廃用性の関節拘縮や痙性麻痺にもその害だけではなく、身体の深淵な考えがあるのではないかと私は思うのです。

この関節拘縮や痙性麻痺というのは正常な筋肉運動ができないから起きているわけですから、正常な筋肉運動をするというのが、一番の治療法であることに間違いはありません。

しかしその正常な筋肉運動が不可能という前提で、関節が硬くならなかったらどうなるかを考えてみます。

手や脚というのは相当に重くて、片麻痺の人はその重みを支えきれず肩が抜けそうになることもよくあるのですが、長くぶら下がってしまえば、抜けそうではなくて、本当に抜けてしまうように思います。また脚が曲がらずに力も入らなくてブラブラしていると寝返りをさせたくらいで足が絡まり頸部(付け根)が骨折したとう例が実際にあります。
また、力のない長い手脚が垂れ下がっている状態では、体幹もその重みのために呼吸・消化・排泄などの内臓の機能にもより大きな負担を与えるのではないかと考えます。

こう考えると寝たきりになり、関節が拘縮するのは身体がそれを必要としているのですから、無理に伸ばそうとすると、身体は必死になって緊張を増大させ、身を守ろうとするのは自然なことのように思えます。

それでも関節拘縮が、どんどん進むと、オムツ交換や更衣も容易にできなくなり、呼吸・消化・排泄といった生命活動にも支障をきたしてきますから、身体の防御反応(手足を縮める)が、生命活動に支障をきたさないところに落ちつくようにコンディショニングするのが、機能訓練の大切なところかなと考えています。

私の経験では、手も足も出ない状態(つまり寝たきり)に優しくない力で、関節を伸ばされたり、車椅子への移乗時に乱暴に持ち運ばれるなど恐怖心を抱かせることは、筋緊張を増大させ関節拘縮を加速させていくように考えます。

ですから、介護する人が無理やりな力で介護しなくてもいいような柔らかさを保つこともまた大切な指標かと考えています。

介護するのに、困難が伴うまでに硬くなってしまうと毎日のオムツ交換や車椅子への移乗のたびに緊張されるので、関節拘縮の改善以前に緊張を緩和することしかできず、その改善はとても困難になってしまいます。

この関節拘縮の状態と身体が緊張して力が抜けない状態とは明らかに違うのですが、この違いをわからないで、とにかく関節を伸ばしてしまうということもあるのかと思います。

例えば、

何度かの脳梗塞の後、寝たきりになり、在宅生活を送ってきたけれど、四肢の拘縮が進み、唾液をむせるようになり、床ずれや巻き爪からの感染症を起こすようになってきたので、マッサージに入って欲しいという依頼を頂いた仕事があります。

皮膚の緊張を取り、筋膜の緊張を改善し、萎縮した筋肉を少しずつ伸ばしていけば、普通の手足のようにはなりませんが、リラックスして寝ていただけるようになっていました。

依頼を頂いた理由もクリアして、唾液でむせることもほぼなく、皮膚トラブルもなく、楽々とはいきませんが更衣もそれほど困難を伴わずにできるようになりました。
こうなると後は日々進む小さな筋萎縮を改善し、緊張を緩和してあげれば大きく変化することなく過ごしていただけます。

ところでこの方は、家族さんの休息のために、年二回、二週間くらい入院されます。その病院はリハビリにとても熱心な病院ですから、毎日リハビリをしていただけるように聞いています。

私の在宅での訪問は週に2回ですから、さぞかし関節拘縮が改善されるかと思うのがフツウではないかと思いますが、足はそうでもないのですが、肩は指を入れることも難しいくらいにカチカチになって帰って来られます。

在宅と違って、オムツ交換などがソフトでなく恐怖心を与えているのかもしれませんが、全体的な緊張がさほど強くなく、上肢帯(肩まわり)の緊張が特に強いことを考えると、多分曲がった手を毎日のリハビリで伸ばしてもらった結果なのかなと考えています。

わずか二週間の入院で、入院前より退院時の方が身体が緊張でカチカチになってしまっているのですが、関節拘縮が進んだというより、筋緊張が高まっているのです。

それで、退院された後にまず私がすることは、「もう大丈夫、嫌なことはしませんよ」と話しかけながらリラックスしていただくことです。

すると、すーっと緊張が抜けて身体全体が柔らかくなっていくのです。

科学的客観的なデータがないマッサージ師の、主観的直観的考えに基づいた考えなのですが、リハビリの先生が、必要な柔らかさの確保ということではなく、関節は伸ばさなければならないという呪いにかかっていらっしゃるのではないでしょうか。

この病院のリハビリの先生は本当に一生懸命で評判もいいのです。だから一生懸命に関節拘縮を伸ばされているのではないかと思うのです。

機能訓練やリハビリテーションというのは一体何のために誰のためのものなのかを考えざるを得ない出来事なのかなと思います。

次回は関節拘縮だけじゃなく、慢性期老人・障害者の機能訓練全般にについて考えたいと思います。

ご意見お待ちしております。


筋緊張が高いと呼吸すら思うようにできません。そんな時、手の重みだけで呼吸を助けるくらいの弱い力で十分なのです、

呪縛からの解放1〜コリはほぐすもの・関節は伸ばすもの、リハビリはゴールを設定して近づくもの⁉️⁉️

夢枕獏著「陰陽師」シリーズに登場する安部晴明と、その友・源博雅朝臣との会話に「呪(しゅ)」とは何かというのがあり、「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」「ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのは、名だぞ」と安部晴明が応えるくだりがあります。

知らず知らずにある考えを前提に物事を進めてしまう態度自体が「呪い」というものかと思うのです。

最近、一人の患者さんに他の職種の方と「機能訓練」を共に担うという仕事が増えてきました。しかし残念ながら、連携がなかなかうまくいかないことの方が多いように感じています。

先日も、患者さんから、「安井さんは、障害者の気持ちをよくわかっている。マッサージが一番役に立っている」というようなことを言っていただきました。とてもうれしく有り難い言葉ですが、マッサージだけが独立して一番と思われるよりも、共に担う職種の方々の連携があってこそと思っていただけるほうがいいのです。それぞれの仕事において同じ方向を向き、協力しながら関わることができたら、患者さんは百倍お得になるのだと思います。

うまく連携が取れない理由に、マッサージ師は医療知識が少なく、コリを揉んでほぐしているばかりで、リハビリ的な関わりができないからと考えることが多いかもしれません。これは「呪い」のようなものかも、と考えるようになりました。

揉んで貰えば気持ちよくて、リハビリはしんどくて痛いこともあるので、患者さんがマッサージを好むのは当たり前だけれど、それを医療として認められない。故に保険適応外で、チームを組めないと考えている人もいるかもしれません。

なぜマッサージ師が医療保険から締め出されて、理学療法士や看護師、機能訓練指導員の関わりは大切だと思うのか、実際のところは、私にはわかりません。

反論したいことはいっぱいありますが、話が噛み合うのか、私の言うことを聞いてくれるのか、言うだけ無駄な気がして、いままでは話すことを諦めてきました。

患者さんの私への評価が、「どうやら、マッサージがうまいらしい。人との関わりがソフトだから、関係を作りにくい患者さんを任せてもなんとかやってくれる」となれば、そこを評価されて、仕事を紹介していただけているなら、もうそれで十分だと思ってきました。しかし、この頃増えてきた、他職種の方と機能訓練を共有することで、マッサージ師はもちろん、他の職種の方の多くがこの「呪い」にとらわれているのではないか、この呪いから解き放たれないと、高齢者や障害者といった「治る」ことのない状態に関わることは、その効果より弊害が大きいのではないと思うようになりました。

できましたら、わたしの拙い文章、考えを批判し、私を新たなステージに導いてくださる意見をいただけることを期待して、私の考えを発信してみようと思います。

一面的で傲慢な理解である場合もあるかもしれません。是非とも批判していただけることをお待ちしております。

長いので、シリーズにしようと思います。今回は導入だけ。

この患者さんは、膝を伸ばす方向が悪く靭帯が伸ばされたせいで、膝が伸びなくなっていたので、キネシオテープで保護。それだけで、膝が動き出しました。

ここが伸びてると見たらわかります。