認知症の魅力(4) Dさんのこと

Dさんは、本当に陽気で人を褒める天才です。

今は、自分で歩けなくなってしまわれましたが、陽気な性格は変わらず、言葉巧みに誉めるのがとても上手なのです。
お上手とわかってはいても、ついつい顔がほころんでしまうようなセリフを次々と仰います。

「あんたさんみたいな奥さん持って旦那さんは幸せやろ。『お前今日はどうやったんや』『あなたのおかげで今日も幸せ💕』」

と何も言わないのに一人で勝手に話しを膨らませていかれます。

「いつ見たんですか?」と返すと

「そんなもん、みんでもわかる」と続くのです。
そんな調子で、施術中は、ずっと話して笑ってばかりです。

いろんなことをわかったり、覚えたりしていても社会的に生活を営む力は衰えたり、失われたりするのですから、認知症というのは本当に不思議な病気です。

長年、福祉に携わり、数えきれない人のマネージメントをし、ヘルパーやデイサービスの導入で在宅生活を支えてきた友人が、
「ボケないと、デイサービスには行けないわよ。無理。ヘルパーさんにきてもらうのだって、ボケないと無理。認知症は神様からのプレゼントなのよ」と話してくれました。

自分がしてきたやり方や流儀があればなかなか他人のやり方を受け入れたり、裸をさらしてお風呂に入れてもらうなどできないというのです。

私たちは、知らず知らずに、心のどこかで、「老人」や「障害者」を対等な自分と同じような人間としてではなく、「世話される」「こちらの善意を素直に受け入れるべき」存在として見ているのかなと思います。

尊重したいけど、実際にサービスを運営するには無理があるという理由をつけているうちに、それを当たり前のサービスとして運営し、他の選択肢はないというように、ある意味「強要」しているのかもしれません。

そこで、自分の力が衰え、他人の世話を受け入れるしかない状況を生き抜くしかない時、長年社会的に築き上げてきた自分を失い、ただ相手の心だけを基準として感じるように脳が「進化」したのが認知症じゃないかと思ったりします。

だから、認知症の人は、未熟さから来る失敗や失礼により誰かを嫌ったりすることはなくて、大切にしたいと思っている思いを評価して、大きな心で許すことが出来るのかなと思ったりするのです。

反対にどんなに丁寧な対応をしても心がそこになければすぐに見破ってしまえるようにも思います。

だから認知症の方と付き合う時は、いつも真剣勝負です。
心の中が不思議とバレバレで、次の仕事の段取りを考えていたら、帰らせないように怒り出されたり、またプライベートな悩みを抱えていてもすぐに見透かされ何も言わないのに「大丈夫だよ」なんて言って、仕事中に私を号泣させることもあります。

こんな対応の中で、私は、いつも認知症の患者さんから包んでもらい、甘やかしていただき、そしてとても癒されているように思います。

ところで、いつもみんなを癒してくれていた陽気なDさんですが、最近様子がおかしくなってしまいました。
表情が乏しくなり、常に誰かに側にいて欲しいという不安の訴えが強くなって、あの陽気な姿は消えてしまったようです。
周りの皆さんも様々フォローされていますがなかなか事態が好転しません。

認知症の人は、繊細すぎるが故に、何かのきっかけで悪い方に回り出すと、普通以上に、雪だるま式に加速してしまう事が多いように思います。
だからこそ、安定した状態で過ごしていただけるよう関わることは何よりも大切なのだろうと思います。

今は、なんとかDさんが、もう一度陽気なDさんに戻れる関わりが出来たらと思っています。
ご恩返しにがんばらないと!

これは全く認知症のない、普通以上にしっかりされている90歳の方の作品。侮るなかれ、御老人様!

認知症の魅力(3) Cさんのこと

Cさんは、悠生治療院の最高齢で、もうすぐ106歳のお誕生日を迎えられる方です。
私はとにかくCさんが大好きです。身体が弱っても何があっても、いつも大きく私を包み込んで下さる優しい方なのです。

そんなCさんですが、昨年までは、なんとか歩けていましたが、今はベッド上の暮らしになってしまいました。
この方は認知症というより、年相応の”ボケ”といった感じです。
記憶がはっきりしている時と妄想に支配されている時とが混在している感じです。(これを立派な認知症というのかもしれませんが…)

一人で過ごす時間が長くて、時に、様々な妄想の中を行ったり来たりして、現実と夢の境がなくなってしまうようです。
訪問時に、男が侵入してきた話や、お金を盗んでいく悪いヤツや、家を乗っ取ろうとする悪いヤツらの話ををして下さることもよくあります。

一人で家を守り抜いて来られたので、その不安感がこのような妄想を生み出すのかなと思います。

このような話の時は、私の返事は決まっています。
「105歳の方から泥棒するような悪いヤツは必ず神様が成敗してくれますよ。本当に悪いヤツですね!」
するとCさんの返事も決まっていて、
「そうや。私は神さまをちゃんと信心して来たから守ってもらってるんや」と言われて、悪党の話はおしまいになります。

昔の人らしく信心深い方なのです。

また、Cさんがよく話されることにお天気の話があります。
「今日は雨か?」「もう雨は止んだか」「寒いな」など言われます。

Cさんのお部屋に窓はなく、外は全く見えません。24時間、エアコンも電気もつけっぱなしです。テレビもラジオもついていません。
また、Cさんは、耳も遠くて(105歳ですからね!)雨音も聞こえていないだろうと思います。

でも、大概の天気予想が当たるのです。
本当に不思議です。
毎回私は、どうしてわかるの?と尋ねます。するとCさんは、決まって
「神や仏が教えてくれる」と言われます。

そんなCさんは、私が定期的に訪問していても、昼夜逆転していて、熟睡中で全く目が覚めない時があると「長らく見てないな、元気にしていたのか?」とおっしゃることもありますが、しっかり覚醒していて、たくさん話をしていても、「久しぶりやなぁ」と言われることもあります。記憶がどんな風になっているのか全く想像もつきません。

お一人暮らしなので、Cさんの生活は毎日のヘルパーさんや訪問看護さんに支えられていて、多くの方々が訪問されています。

昨年までは、私を含めて大概の人を記憶されていましたが、歩けなくなり、ほぼ寝たきりになってからはそれもあやしくなってきました。いろんな記憶がどんどんごちゃごちゃになっているように見えます。

そんな中、先日訪問した時、Cさんは、傾眠状態でした。
その日は、仕事が予定通りに進まず、時間が押していました。その後に会議が入っていて、いつもの施術時間の半分もいることができませんでした。
仕方ないので、明日に再訪すると言って失礼させてもらいました。
傾眠状態だったCさんですが、「忙しかったら、いいよ」と言って下さいました。少し衰えてきたとはいえ、相変わらずしっかりしてはるなぁと思いながら失礼しました。

そして、翌日は様々な予定外のことがかさなりCさんへの訪問ができないまま、一週間後の定期の訪問になってしまいました。

その日のCさんは、訪問した時からしっかり覚醒されていました。
「長いことみいひんかったなぁ。」
いつも熱烈歓迎、優しくて私をとてもいい気持ちにしてくれるCさんですが、今日は冷たい雰囲気です。
いつもと少し違うなと思いながら、「そんなことないですよ」と答えていましたが、Cさんの冷たい雰囲気は変わりません。
「人間は正直に生きなあかん。嘘をついたら、神様がちゃんとみている」と続きます。

前回に短く済ませ、翌日も出直せず、今日の訪問時においても、非礼を詫びない私への非難なのだと気がついて謝りました。

記憶が曖昧になってきたことをいいことに、再訪の約束を簡単に破り、謝りもしなかったことを恥ずかしく思いました。

しかしながら、Cさんが、一週間前の出来事を仔細に記憶できているのか、本当のところは、わかりません。

もしかしたら、そうではなく、私の中の罪悪感を敏感に感じ取って表現されているのかもしれませんし、またもしかしたら本当に神や仏が教えてるのかもしれません。

こんな時、
「本当に大切なことは目に見えないんだよ」
という星の王子様の言葉を思い出します。

人類だけが、獲得したのであろう大脳新皮質による思索や記憶が曖昧になる時、人は目には見えない大切なものを敏感に感じ取る能力を取り戻すように思うのですが、どうでしょう。

私の母校。篠山の小学校の手洗い場。今は廃校になり再利用されています。私の幼児時代の暮らしは都会のそれとは30年くらいタイムラグがあるらしいです。そんな古きを知っていることは、私の密かな自慢なのです😋

認知症の魅力(2) Bさんのこと

Bさんは、私に認知症との付き合い方の新たな扉を開けて下さった人です。

Bさんは、転倒し右股関節を骨折して歩きにくいという以外は、自分のことはそれなりに自分で出来、たくさんおしゃべりもして下さる、会社を経営してこられた女性です。

骨折後、リハビリがきちんと出来ず退院されたBさんに、出来るだけ自分の足で歩き続けて欲しいというご家族のご希望で訪問することになりました。
でもBさんは、座ってする脚・肩のマッサージは好きでも、ベッドに横になるのは気持ちが落ち着かないようで拒否されていました。

認知症の方には、Bさんのように、ベッドで横になるのを拒否される方が少なくありません。それは、マッサージが嫌というより、”するべきこと”があるのに、横になっていられないという焦りから来るものではないかと思います。

身体を整えたいので、ベッド上でのマッサージが出来ると歩きやすくなってもらえるのですが、仕方ありません。
こういう時は、決して無理強いしないで、ご本人のご希望に添うのがなりより大切だと考えています。

なぜなら、他の関わりの中では、生活上の必要なことと、ご本人の気持ちがずれていても、必要性が優先されることも多いと思うので、心地よさを感じていただくことが第一目的のマッサージの時間くらいはご本人の意に添えることは、出来る限り、添っていきたいと考えているからです。

Bさんは、最初から、サポートをすれば歩けたので、お声かけした後は、ご本人のしたいように歩いていただきました。
お部屋に入ったかと思えば、すぐに廊下に出たり、玄関まで行ってはすぐ帰ったりという具合です。

私は、歩きながら、少しの抵抗をかけ、姿勢や歩幅を調整しながら歩行の安定をり、座って休憩をするときに、四肢のマッサージや可動域訓練、少しの筋トレをしました。

日々の生活では、介護される方々も、危ないからと言ってBさんの動きを制限されることなく、素晴らしいサポートをされていました。

それで、歩くことに自信を取り戻したBさんは、すぐに独歩(杖なしで歩くこと)が出来るようになり、家の中では、自分で行きたいところにいけるようになられました。

社会的にも豊かな仕事をされてきたBさんは、ますます活発にお話をしてくださるようになりました。

しかし、お話はいっぱいして下さるのですが、その話に対して質問をしたり、相づちをうったりしても、その次には話題が全く変わってしまって、会話が成立しないのが、私にとってBさんと関係を結ぶ上で一番大きな問題となっていました。

認知症の方の多くは、どんなに記憶が曖昧でも話している間のやり取りは、概ね問題がなくて、きちんと会話が成立することが多いのです。

例えば、30分の施術中に

「今日の晩御飯は何作るんや?」
「そうですね。カレーにしようかなと思います」
「そうか、カレーはいいな。簡単やし、子どもが好きやろ。あとサラダだけ作ったらいいしな」

という会話を10回以上繰り返すことがよくあります。

10回目くらいになると、
「今日の晩御飯は何作るんや?ああ、カレーやったな」と答えまで言って下さることもあります。

私はこういう会話を患者さんと同じ気持ち、つまりいつも1回目の質問という気持ちでするようにしています。
何度も繰り返すのに疲れてきたら、「何がいいと思いますか」と答えを変えたりはしますが、とりあえず飽き飽きしないように注意しています。

相手から自分がリスペクトされていると感じ続けることが、認知症になって焦りや不安を抱えているご本人の心が穏やかになっていくのに何よりも大切だと考えているからです。

ところが、Bさんとは、ここのところ全く上手くいきませんでした。

話題が次々と変わっていくのです。一つところに留まれないのと同じで、絶えず焦りや不安が心の中にあるように思いました。
なんとか、すれ違わずに会話を成立させようと、褒めたり、驚いたり、様々してみましたが、なかなかうまくいきません。

そこで、話の中味は言いたいことと違うのかもしれないと考えてみました。
エピソードではなく、その時語られる気持ちだけに焦点を当てて、その言葉を繰り返してみました。

(どういうことかというと、
例えば英語で会話をしているときに、すべては聞き取れないけれど、ハッピーとかグッド、バッド、ソーリーだけを聞きとりフィーリングを理解するような感覚です。)

するとBさんの目が、キラリと光りました。
閉ざした心を開いて下さる瞬間です。

認知症の方と関わっていると、こんな風に、「えっ!」と”正気”に戻り、驚きの目で見て下さる瞬間を経験することがあります。

多分、Bさんは、辛いとか悲しい、嬉しいという気持ちを伝えることが出来なくて、それを伝えるために、それを感じたエピソードを独り言のように話し続けていらっしゃったのではないかと思います。

だから、会話が成立しないこと以外は、それほど”問題行動”はなくて、誰から見ても、わかってはいらっしゃるみたいなんだけど…という人になっていらっしゃったのではないかと思います。

このやり方で、少し会話が続くようになりました。
Bさんの気持ちを表している言葉を相づちのように、繰り返すと、「そやろ。そういうしかないやろ」と返ってくるようになったのです。

そこから先は、今の状況から推察して、その感情が起きている出来事を尋ねてみます。当たっているとニヤリと笑って下さるようになりました。

例えば、
私の代わりに行っているスタッフと同行し、その対応に問題がないか、身体の具合はどうか私が尋ねると
「何にもない」
とおっしゃいます。
(この前後に何か言われていますが、あまりに饒舌で、意味がわからないので、私の記憶に残っていず、書くことができません)

認知症になろうと元社長、いつも大きな心で私たちを可愛がって下さる方なのです。嬉しい時はそういう表現をして下さいます。ですから「何にもない」はマイナスの言葉だとわかります。

そこで、
「痛いんですね。上手にしてくれないんですね?」と聞きました。
すると
「そういうしか無いやん。他にどう言える?」
と笑いながら答えて下さるのです。

とても多弁で、話し続けているからついそちらに気が向いてしまいます。でも、本当に伝えたいことは、その話そのものにはないなんて、本当に驚きました。

その上、気持ちを上手に表現することは出来ないけど、その裏側では、相手を気遣い言葉を選んで話されているのです!

認知症の方は、わからないから、何を話してるかわからないから、”健常者”は、リスペクトしなかったり、適当にあしらったり、これくらい大丈夫だろうとぞんざいに扱ったりしているのに、Bさんの懐の深さと人柄の良さと認知症という病気の不思議さをしみじみ感じています。

本当に脳って不思議で魅力に満ち満ちているなと思います。

こんな風にリスペクトしてもらえているにもかかわらず、気持ちに応える施術が出来ないスタッフに、しっかりするように叱咤激励したのは言うまでもありません。

加齢によって起きる病気の多くは使い過ぎが原因だと思う。
人によって、臓器の寿命と消費量が違うから、疾病は、臓器寿命が尽きた場所に起因して発症すると聞いたことがある。
だから認知症は脳のどこかの寿命が尽きて、社会生活を送りにくくなってしまったんじゃないかな。でもそうなるくらい、人一倍敏感に使い過ぎたからじゃないかな。
そんな社会的な仮面を外した心優しい人と過ごす時間 is 最高 です。

認知症の魅力(1) Aさんのこと

Aさんは、私が最も感謝し、そして出来る限り長く付き合わせて欲しいと願う患者さんの一人です。

早くに妻を亡くされ、男手で子どもを育てあげた後、長い一人暮らしの中で認知症を発症。70半ばで一人暮らしを続けるのが困難な状況になり、子どものいる京都に移られました。

Aさんの状態は、歩行器をなんとか使い少しの手助けで歩くことは出来ましたが、日常生活全般において介護が必要でした。

怖さと痛さが伴う介護になると、いわゆる「指示の通らない」方になり、怒鳴る、叩く真似をする、蹴る真似をする、それでもやめてもらえないと噛む、叩く、蹴ることがあり、排泄などの移乗が困難な状況です。(別にむやみに暴力を振るうわけではなく、怖いという理由がはっきりとあるので、無茶苦茶な人というわけではありません。迫力満点で力が強くて太刀打ち出来ないだけだとも言えるのですが)

また、マッサージもあまり好きではなく心地よい刺激量を模索しながらの関わりでした。

歩行力を少しでも維持してもらいたいというご家族の希望での訪問でしたが、歩く練習も日によって出来たり拒否したりといった状態で、私に出来る関わりがきちんと見えず、歩行レベルがどんどん落ちていってしまいました。

歩行レベルが落ちれば落ちるほど、車椅子への乗り移り、トイレへの移乗と言った必要な動作も怖くなり、排泄介助という基本的なことすらままならない状況でした。

なんとか糸口を見つけようとあの手この手を考えましたが、なかなかうまくいかないまま、介護拒否は強くなる一方で、私のマッサージ訪問だけではなく、関わっている全ての人が困り果てていたように思います。

そうこうするうちに、Aさんはついに、食事も水分も拒否されるようになりました。無理やり口に入れても吐き出してしまわれるのです。どうすることも出来ないまま、みるみるうちに痩せていかれました。

極度のストレスが原因なように見受けられ、
ご家族の話し合いの結果、環境を変えてみようということになり、
話を伺った私からAさんに伝えることになりました。

今までの関わりの中で、Aさんがこちらの話や状況を理解出来ているという確信が持てずにいたので、環境を変えるという複雑な話をご理解いただけるだろうかと懸念しましたが、一刻も早く何かを口にしないと命の危険が迫っているところまで来ているように思え、とにかく食事がとれるようにするため今の環境を変えてみるお話しをしました。

すると、私の話を聞いたAさんは、涙を流して、動きにくい手で拍手をして喜ばれたのです。

関わって一年足らずでしたが、こんな風に感情を表して下さったのは初めてのことでした。

食べられなくなるほど追い詰められる前に、私がAさんのことを正しく理解出来ていればと思うと、本当に申し訳なく思いながら、二人で抱き合って泣いたように記憶しています。

Aさんの身体は衰弱しきっていたため、入院することになり、
それでも新しい環境に移る事を理解したAさんは、病院ではきちんと食事をして1カ月あまりで退院してこられました。

1カ月ぶりに会った時、あの時一緒に涙を流したことは覚えてはいないだろうと思っていました。
私のことを覚えて下さっているかどうかもわかりませんでした。
ところがAさんは私をみるなり、私が何かを言う前に涙を流して再会を喜んで下さいました。

それから2年。
いろいろあってAさんの機能は前より低下しています。
しかし、周りの皆さんの温かい関わりにAさんの心の氷は少しずつ溶けてきているようです。

時には痛い、怖いと怒ってしまう時もあるようですが、ふだんは、食事を美味しそうにパクパク食べ、穏やかな毎日を送れるようになられました。

なかなか訪問出来ないご家族には、とりあえずプンプンした対応で寂しさを表現し、来てよー!というメッセージを出し続けていらっしゃるようです。私も仕事の都合上、他のスタッフに交代してもらった時は不機嫌になられ、挨拶をしても知らん顔をされます。それでも私を忘れることなく、様々なこちらの未熟さも受け入れてお付き合いして下さっています。

私は、Aさんのストレスを少しでも減らすために、Aさんにとっては痛い、怖いこと(施術)をし続けています。Aさんは、怖さや痛みをうまく言葉で表現できないから、怒ったり手が出ることがはっきりしているからです。ここを保証していくことが何より幸せな毎日の元だと思っています。ですから、Aさんが立てるようになることを決して諦めていません。
Aさんもそこは納得して下さっているのでしょう。私がするたいていの痛い・怖いを受け入れ、我慢して下さっています。そして、怒る以外のやり方で伝えて下さるようになりました。

私が「うまく言えないけど全部わかってるんですよね」と言うと、Aさんは、にっこり笑って頷いて下さいます。

とはいえ、食べ物ではない、コップやお皿をガジガジ噛んだりする姿も見ることがあります。
何がわかり、何がわからないのか、一体どうなっているのか細かくはよくわかりません。

けれど、私には、毎日起きるほとんど全ての状況を理解されているように思えますし、(介護で関わっていらっしゃる方はまた違うのだろうと思います)、Aさんが目には見えない他人の愛情や気持ちを、認知症ではない方以上に敏感に感じとっていることは確かなように思います。

施術中は必要なこと以外黙ったままなのですが、信頼し受け入れて下さっていることがわかるので、私も苦手なリップサービスや社交辞令に気を使うことなく、リラックスして施術することが出来ます。

そして、訪問するたびに、お力になれるなら毎日でも訪問したいなと幸せな気持ちにさせてもらっています。

もみじは赤いより緑が好き。
感じ方は人それぞれ。
どんな病気もそうだけど、認知症は取り分けて、関わり次第で、本人にとっては大きな問題じゃない病気な気がしています。

認知症の魅力を伝えたい

認知症という病気があります。

単なる物忘れとは違う生活をしていくのに様々な困難を伴うようになる脳の細胞が変性して起こる疾患です。
「認知症だけにはなりたくない」
そう口にする方は多く、自分が自分でなくなってしまえば、生きている甲斐がないと思うのは当然のことのように思います。

こんなことに思い当たれば、認知症?
家族が作った「認知症」早期発見のめやす(認知症の人と家族の会作成)をご紹介します。

日常の暮らしの中で、認知症の始まりではないかと思われる言動を、「家族の会」の会員の経験からまとめたものです。医学的な診断基準ではありませんが、暮らしの中での目安として参考にしてください。

もの忘れがひどい
• 今切ったばかりなのに電話の相手の名前を忘れる
• 同じことを何度も言う・問う・する
• しまい忘れ置き忘れが増えいつも探し物をしている
• 財布・通帳・衣類などを盗まれたと人を疑う

判断・理解力が衰える
• 料理・片付け・計算・運転などのミスが多くなった
• 新しいことが覚えられない
• 話のつじつまが合わない
• テレビ番組の内容が理解できなくなった

場所・時聞がわからない
• 約束の日時や場所を間違えるようになった
• 慣れた道でも迷うことがある

人柄が変わる
• 些細なことで怒りっぽくなった
• 周りへの気づかいがなくなり頑固になった
• 自分の失敗を人のせいにする
• 「このごろ様子がおかしい」と周囲から言われた。

不安感が強い
• ひとりになるとこわがったり寂しがったりする
• 外出時持ち物を何度も確かめる
• 「頭が変になった」と本人が訴える

意欲がなくなる
• 下着を替えず身だしなみをかまわなくなった
• 趣味や好きなテレビ番組に興味を示さなくなった
• ふさぎ込んで何をするのも億劫がりいやがる

相談e-65.net
http://sodan.e-65.net/
より引用させていただきました。

仕事で関わっているときに、ここにあげられているようなことが見受けられると、ちょっと認知機能に問題があるかなと意識しています。

しかし、何年関わっても認知症の方の「出来ない」と「理解力・記憶力」のギャップに驚くことが多いくらい、認知症の方の豊かな感情表現や記憶力に接することがよくあります。

その度に本当に認知症って不思議な病気だなと思います。

スプーンを持っても使わずに見ているのに、食べ物だと手で弄んでみたり、スプーンはうまく使えないけど、顔が痒いと器用に手が動いたりします。
うまく発語や会話が成り立たないことが多いのですが、隣で話している会話はしっかり聞いていて、絶妙のタイミングで合いの手を入れることができたりします。
また、最近のことが記憶できないはずなのに、私の訪問が空くとしばらく来ないとわかり、不機嫌になられることがあります。

心の中はどうなっているのだろうといつも思います。

医療・介護の現場ではしてもらわなければいけないことが多いので、認知症の方を表現する時に「指示が通る人・指示が通らない人」という言い方で、生活の注意が守れるか、リハビリが出来るかを判断するのを耳にします。

この判断にいつも違和感があります。
「指示が通らない」のではなく、そのやり方に納得していないだけじゃないかなと思うことがよくあるからです。
マッサージは指示を出すことがそもそもありませんから、他の関係者のように困ることもほとんどありません。それで、出来るか出来ないかという判断以外で、認知症の方々の表現をクローズアップできる場面に多く恵まれているからかもしれません。

私にとっては、認知症の方への訪問ほど、気持ちをリラックスさせ、心地よい会話の中で治療できる時間はありません。
こんな風に心地よく感じる認知症の方の魅力について伝えたいとずっと考えてきましたが、うまく表す自信がありませんでした。
それでも、本当にこの人たちの寛容な心と鋭い感受性を知ってもらいたいという出来事が続いたので、ようやく重い腰をあげて書いてみようという気持ちになりました。

とはいえ、今回は書こうと思う気持ちになったという前置きだけになります。
次回から少しずつ、頑張って書きたいと思っています。読んでいただけたら幸いです。

認知症は神様からのプレゼントではと思うのです。辛さからの解放ではと。ものすごく人間らしくて、私のようなストレートな人間とは相性がいいように思います。